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般若心経の空とはなにか

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(59)唯識、唯識仏教の限界 その⑦ 言葉の虚構性

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(59)唯識、唯識仏教の限界 その⑦ 言葉の虚構性

言葉の虚構性について梶山雄一氏の著書「空の思想、仏教における言葉と沈
黙」から以下引用します。

『 龍樹の著書「中論」(第8章、五偈)に「業と煩悩は分別から生ずる。分別
 は戯論から生じ、戯論は空性において滅す」とある。

 ここで業とは行為(心的、身体的、言葉的な行い)の事。分別とは二つに
分けることで、すべての事物を対象にして概念や言葉で定義づけて固定化す
る判断とか推理、思惟を意味する。戯論とは言葉や概念の多様性をいう。

 この中論の偈の意味は次のとおりである。「判断が成り立つためには言葉の
多様性が必要となる。言葉の多様な意味や概念に基づいて私達は判断や推理
を行う。判断や推理には必ず価値判断が伴う。その価値判断に私達は愛着し、
執着するから煩悩を生じて行為を行う。そして生死流転する。だからそれを
逆に断ち切っていけば、私達は解脱することになる」。

 ここに分別や概念的思惟が迷いの根源だという思想があり、分別や思惟を
表す言葉に対する不信がある。言葉は決して事物の真相に対応するものでな
く、事物の真相から言葉が引き出されたものでもない。

 言葉は真実や事実とは全く無関係であるが、私達は言葉で考える。言葉が
あれば、それに対応するものがあると考える。実体というものは実は言葉の
問題なのだと、龍樹は繰り返し説かれているのである。

 お釈迦さまも成道直後に言葉による布教を断念し、またのちに形而上学的
な議論に対して沈黙を守ったのも、悟った境涯が私達の認識と言葉と行為を
超越するからであった。

 教学や哲学は言葉や概念に頼らなければ形成されないし発展もしない。し
かし衆生の救いは言葉にはない。お釈迦さまはそれを云おうとして口をつぐ
み、沈黙したが、それでも云わないでおられないとして初転法輪に向かわれ
たのである。

 だから空とは、こうした分別や戯論を止滅した世界でもあるのだ。』
唯識では心を、心そのものと心の作用を分けます。主体としての心そのもの
を「心王」といい、心王とともに起こる作用を「心所有法」といいます。心王
が所有する法(はたらき)という意味で、「心所」と略して呼ばれます。

 心所という心の作用は六種五十一に分けられます。六種とは遍行位(五・)、
別境位(五・)、善位(十一)、煩悩位(六)、随煩悩位(二十)、不定位(四)
です。

 唯識は心の作用を六種五十一に区分して、それぞれ定義して私たちの日常生
活の中での具体的な心のはたらきとして集約しているわけです。

 しかし私たちの心の作用はこの五十一のはたらきで網羅されるのでしょう
か?。たとえば煩悩位の五つは、貪、瞋、慢、無明、疑、不正見です。この内、
貪(むさぼり)、瞋(いかり)、無明(まよい)は三毒煩悩といわれ、私たちを
惑乱させるもっとも根本的な心の作用だといわれます。

 そこで瞋について考えてみます。瞋は自分の気持ちにあわないものや気にい
らぬものに対して、いかり憎む心の作用です。いかりの心は身心の平安を一挙
にそこない、煩悩を深めるものといわれます。

 瞋の原因や対象、又その強弱は人それぞれです。瞋は犯罪や社会的不正だけ
でなく、個人間の仕事や約束事や金銭にからむ軋轢で生ずるものです。一方、
瞋は社会的正義が実現しないとか守られないという現実を正すために発するこ
とがあります。又、友人、家族を深く深く愛するがゆえに瞋を発してその間違
いを正そうとする事もあります。そして、そもそも聖者の瞋と極悪非道の人間
の瞋とはどのような違いがあるのでしょうか?。

 無始の昔から積み重ね引き継がれてきた阿頼那識は一人一人、千差万別であ
り瞋の局面やその解消も千差万別です。又、瞋だけでなく、貪、無明も随煩悩
位の二十の心の作用も、単独ではたらくものでなく大抵は複合的であり、瞬間
的でもあり長い間持続することもあります。そうした心のはたらきの特徴を一
つ一つ数えあげて定義づけることが信者、仏教修行者にどのような意味、意義
があるかも不明です。心の作用を、私たちが知り得る知識や概念で定義して仏
教教義とするのは、前述した龍樹が説いた言葉の虚構性にあたり、大乗仏教の
教義にはずれることになるのではとも私は考えるのです。

 そこで言葉の虚構性を現代的観点で考えてみます。
心のはたらきを六種の五十一に分けるということは、現代的に表現すれば「デ
ジタル」です。心の全ての領域をそれぞれ定義された五十一に区分するのと同
じことです。五十一に定義された基本的要素を心のはたらきとするか、または
基本的要素とされる他の要素との相互関係の中で心のはたらきを規定するのと
同じことです。

 心のはたらきは「デジタル」なものでなく「アナログ」であって、「瞋」とい
う言葉一つ取っても、その性質、その強弱、それが生ずる原因、他の心との相
互作用、持続性、自他への影響力などは千差万別で、五十一の一つの空間で区
切ることの出来ないものです。「デジタル」技術がどんなに高度化し精密化して
も、無限大でかつ無限小の「アナログ」の再生は出来ない。

 唯識は、この点からも、「実在説」へ傾いたものと云わざるを得ないのです。
 このように考えると六種五十一説は、かって説一切有部が「五位七十五法」
を主張して、この「実在する」七十五種の要素は、全ての存在や現象を構成す
る要素にすぎず、存在の実在説と矛盾しないと強調した論理と変わらないと云
わざるを得ないのです。

 唯識の六種五十一説は、形を変えた五位七十五法であり、龍樹が説く「空の
論理」と相いれないものなのです。

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