般若心経の空とはなにか
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「サピエンス全史」
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武田紀久雄
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サピエンス全史 3/3
「サピエンス全史」の仏教に対する誤解について-3の3-2019年8月4日 大乗仏教を代表する経典の一つに華厳経があります。
このお経で繰り返して説かれる教理が「一がそのまま一切であり、一切がそのまま一である」を意味する「一即一切」(いちそくいっさい)です。これは「一つの塵の中に全宇宙が宿り、又一瞬の...
「サピエンス全史」の仏教に対する誤解について
-3の3-
2019年8月4日
大乗仏教を代表する経典の一つに華厳経があります。
このお経で繰り返して説かれる教理が「一がそのまま一切であり、一切がそのまま一である」を意味する「一即一切」(いちそくいっさい)です。これは「一つの塵の中に全宇宙が宿り、又一瞬の中に永遠がある」とも表現される有名な教理です。
まことに不思議で私達の日常生活の感覚とは全くかけ離れた教理です。
しかしお釈迦さまの悟りである「縁起」、そして「縁起」に言葉の意味として潜在していた「相互依存性」を明らかにした龍樹の「空」の論理をもって考えると、不思議とは云えない実感に打たれます。
龍樹はまず「実在」を次の三つの要件で定義する。『実在するものは他に依存しないから「自立的」である。実在するものは絶対に変化しないから「恒常不変」である。実在するものは複数では有り得ないから「単一」である。この世に自立的で恒常不変で単一のものは存在しない。もしあるとすれば、それは言葉の世界だ。』
この世の全ては他に「縁って」存在し相互依存の関係の中で生成、変化、消滅を繰り返すだけです。これは人間の喜怒哀楽の心を含む動植物の生命現象も、宇宙天体を含む天然自然を含む一切を貫徹する唯一の原理なのです。
「一即一切」の教理は現代の物理学の知見によって論理的に明快に説明出来ます。
物理学は私達が目にする物が「物質→分子→原子→素粒子→クォーク」の階層によって構成されている事を明らかにしている。それでは物理学によって実証的に観測され確認されているクォークは、この世界の最小単位の物質でしょうか?
量子力学の世界では長さの単位が原子の10-10メートルから、プランク・スケールと呼ばれる10-35メートルまである。同じミクロンの単位の中でも原子とプランクスケールとでは25桁の違いがある訳です。一方この25桁は、地球の直径が12,800km(1.28×107メートル)で、観測可能とされる宇宙の直径200億光年(2×1023km)との計算上の差19桁より大きい。
私たちが知り得る宇宙より、原子の空間がはるかに広大なのです。まさに「一即一切」の現実です。
しかもプランクスケール10-35メートルは量子力学の世界で最小単位とされる長さの単位ですが、それは理論的に計算上想定されているだけで、実際の究極の単位ではない。空の論理によれば、他に依存せず、恒常的に変化せず、単一の実在は有り得ないから、相互依存の関係は無限の彼方へ続くので、小ささの単位は「無限小」なのです。
観測可能な宇宙の直径が200億光年としても、それは宇宙の観測可能性の限界です。直径が200億光年を一つの宇宙とすればさらにその四方八方には現代の技術では観測出来ない宇宙世界が広がってる訳で、神の如く全宇宙を俯瞰できれば200億光年の宇宙とは私達がいま見ている星空の一つの星座みたいなもので、200億光年を一つの星座としてその外にさらに無数の星座が散らばる無限の宇宙空間が続いているはずです。
つまりは物質世界あるいは空間世界とは「無限小」でかつ「無限大」なのです。
現在の宇宙は天地開闢の大爆発によって誕生したとされる説、ビッグバンがある。物理学の計算上、ビッグバンによって宇宙生成されるまでの時間は数千万分の一秒だそうです。200億光年の宇宙世界がまさに「一瞬」にして誕生した事になります。それが無始の昔から無終の未来に向かって連綿と無数に繰り返されているのでしょう。
文字通り、華厳経の「一即一切」つまり「一瞬の中の永遠です」。多分、このお経を説かれた神秘的修行者は深い瞑想の中でこの事を如実に見ていたのでしょう。その事を現代の物理学者はその一端を数学的に検証したのです。
こうしてお釈迦さまの悟り「空」とは空間的に、無限大でかつ無限小である事、時間的に始まりはなく終りがない事を意味している。人はそんな原理の中で喜怒哀楽の中で人と交わり、動植物を含む天然自然の中で無限の苦の生死を繰り返している。
お釈迦さまは「智恵を完成する瞑想」(般若波羅蜜多)によってそうした終りのない相互依存の世界からの解脱を説かれているのです。
しかし、それにしても「空」とは「始まりもなく終りもない世界」、「無限大にして無限小の世界」を示すものだと言葉の意味として分っても、感覚的に理解不能の世界です。それだけでなく私は最近もう一つ不思議な現象を知りました。昨年、チベット仏教のダライラマ法王が来日された。その招聘元の団体の代表の方と懇談する機会がありました。
色々と話が弾む中で私は質問した。「チベットや東南アジアの仏教国では般若波羅蜜多、つまりお釈迦さまの瞑想で智恵の完成を得て解脱された修行者が少なからずおられるのではないか?」。その答えは不思議なものでした。「ございます。坐禅の姿のまま亡くなられた方で遺体が腐敗しないので遺体を特殊な塗料で装って、寺院に仏像として安置される方がおられます。又、亡くなると遺体が次第に縮小してやがて消失してしまう方もおられます。」
私はその会話で龍樹菩薩の伝説を思い出した。龍樹は最初の著書中論でこの教えのオリジナルはお釈迦さまにあると宣明して「空」を説き、大乗仏教の基礎を築き日本では八宗の祖と称されている。
龍樹が亡くなった時、蝉が抜け殻を残して飛び去るように、衣を残して姿を消してしまった、と云う有名な伝説があります。
解脱者が遺体ごと消失するというのは何千年前から現代迄続いている現象なのでしょうか?もし龍樹の伝説が実際の現象として存在しているのであれば、私達が展開する論理とか、人類史上もっとも発達した現代の科学技術をもってしても解明出来ない、不思議な世界に私達が生きているのでしょうか?。]]>
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2019-08-04T10:15:57+09:00
武田紀久雄
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サピエンス全史 2/3
「サピエンス全史」の仏教に対する誤解について-3の2-2019年8月2日以下、一つ目の違和感『お釈迦さまの悟りを渇愛という心の働きに限定した事』について詳しく述べます。
お釈迦さまの悟りの本質について、仏教集団において数百年に渡る論争がありました。渇愛とは対象に対する本能的な強い執着、欲望のこと...
「サピエンス全史」の仏教に対する誤解について
-3の2-
2019年8月2日
以下、一つ目の違和感『お釈迦さまの悟りを渇愛という心の働きに限定した事』について詳しく述べます。
お釈迦さまの悟りの本質について、仏教集団において数百年に渡る論争がありました。渇愛とは対象に対する本能的な強い執着、欲望のことで、インド語原語の意味から「喉の渇き」に喩えられた。初期仏典では渇愛は苦の源泉とされ、サンユッタ・ニカーヤに「渇愛を捨て去ることによって涅槃がある」との文言(仏教辞典より)があります。
しかしこの考えはお釈迦さまの重要な説法にかかわるものですが、お釈迦さまの悟りそのものではない。お釈迦さまが、説法として苦しみの大きな原因の1つとして激しい心の働きについて語ったもので、悟りをめぐる1つの仏教集団による1つの結論に過ぎない。しかも間違った結論です。
お釈迦さまの悟りとは「縁起の法」です。縁起とは「縁によって生起する」ことで、物事は必ず原因と条件に依存して生起する事を意味し、生存の苦悩は「縁って」生起し、変化し、消滅することを繰り返すものです。そしてお釈迦さまはこの縁起を「人間の心のみの真理」として説かれた訳でもない。この世に存在する一切の生命現象や、森羅万象を貫く絶対的真理として縁起を説かれたのです。
お釈迦さまに「火の喩え」という法話があります。
以下、「空の思想、仏教における言葉と沈黙」梶山雄一著、人文書院より引用します。
『尊者マールンキャはブッタに「世界は常住であるか、無常であるか?」、「世界は無辺であるか、有辺であるか?」、「霊魂と身体は同一であるか、別異であるか?」、「如来は死後存続するか、存続しないか?」等、形而上学的疑問について質問した。同じくヴァンチャゴッタも同様の問題について質問してブッタが意見を述べないのに対して落胆してブッタへの信頼を失ったと申し上げた。
そこで、ブッタは「火の喩え」をもってヴァンチャゴッタに反問する。
<ブッタ>
お前の前に火が燃えているとせよ。ひとが「この火は何に縁って燃え
るのか」と問うならば、お前はどう答えるか。
<ヴァンチャゴッタ>
この火は草や薪によって燃える、と答えましょう。
<ブッタ>
その火が消えたとして、その火はここからどちらへ去ったのか。
東、西、北、あるいは南なのか。
<ヴァンチャゴッタ>
そうは云えません。実はその火は草や薪によって燃えているので、
他の草や薪が加えられなければ食無として消えてしまうだけなのです。
<ブッタ>
如来は物と心とのいずれよりも解放されているのであって、
その死後どこかへ行くのでもなく、行かないものでもない。根を断た
れ本を抜かれたターラ樹のように非有に帰せられ、生じないものとな
るだけである。』
お釈迦さまはヴァンチャゴッタに火の喩えをもって如来、つまり悟りを
得た修行者について「非有に帰せられ、生じなしものになるだけです」と答えている。
そして、この答は如来のみについてお話している訳でない。たまたま「火の喩え」をもって如来を語っておられるが、この「火の喩え」は、この世の存在の全てにあてはまる真理なのです。
人の喜怒哀楽の心は喜怒哀楽を心に生じさせるその人自身が持つ原因と条件に「縁って」生起し変化し消滅するだけです。
人、動物、植物等の生命現象も、その生命現象特有の原因と条件に「縁って」、営まれるものです。全ての天変地異も同じです。龍樹菩薩が説かれるように、この世に他に依存せず(自立的)、絶対に変化せず(恒常不変)、単一であるという実在の3つの要件を満たす存在は皆無なのです。
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2019-08-02T10:44:53+09:00
武田紀久雄
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サピエンス全史 1/3
「サピエンス全史」の仏教に対する誤解について-3の1-2019年7月30日 最近知人にすすめられて「サピエンス全史」(ニヴァル・ノア・ハラリ著)という世界的ベストセラーを読んでいる。上下2冊の大著で、人類誕生以来の歴史を時代毎にその特徴をコンパクトに要約したものです。著者の博識と明晰さに圧倒されます...
「サピエンス全史」の仏教に対する誤解について
-3の1-
2019年7月30日
最近知人にすすめられて「サピエンス全史」(ニヴァル・ノア・ハラリ著)という世界的ベストセラーを読んでいる。上下2冊の大著で、人類誕生以来の歴史を時代毎にその特徴をコンパクトに要約したものです。著者の博識と明晰さに圧倒されます。
しかし、下刊の仏教に関する記述に、私は考え込み読書を中断してしまいました。著者の知識の広さ深さ、論旨の明快さが仏教の所で急停止した感じでとまどってしまいました。
著者は仏教を誤解しています。仏教のなにを誤解しているかを述べる前に、著者の宗教にたいする考えをまとめてみます。著者は宗教について次の様に述べている。
『宗教は貨幣と帝国と並ぶ、人類を統一する三つの要素の一つだった』。そして『宗教とは超人間的な秩序の信奉に基づく、人間の規範と価値観の制度である』と定義し、そこには二つの異なる基準がある、とする。
『
1 宗教は、超人間的な秩序の存在を主張する。
2 宗教は、超人間的な秩序に基づいて規範や価値観を確立し、それには拘束力があると見なす。
そして、本質的に異なる人間集団が暮らす広大な領域を傘下に統一するためには、宗教は普遍的であると同時に、宣教を行うことが求められる
』
以上の様に述べた上で、宗教を神や神以外の超自然的存在を中心とする宗教と、自然法則に基づく神不在の宗教の二つに区分する。
前者にはアニミズムや多神教、善と悪あるいは神と悪魔という二元論宗教、そしてユダヤ教、キリスト教、イスラム教の一神教がある。ただし、一神教は多神教や二元論宗教を是認しつつ、そのさまざまの儀式や慣行を組み合わせた混合主義という様式の世界宗教と化している。その意味で混合主義こそ唯一の偉大な世界宗教なのかもしれないと述べる。
後者の自然法則を信奉する、神不在の宗教の代表が仏教である。著者は仏教をつぎの様に解説する。
『彼(ゴータマ、仏陀)は苦しみは渇愛から生まれる、と説く。そして苦しみから完全に開放される唯一の道は、渇愛から完全に開放されることで、渇愛から解放される唯一の道は、心を一連の瞑想術によって鍛えて、現実をあるがままに経験することである。苦しみは渇愛から生じるのは法則だから、もしある人の心があらゆる渇愛と無縁であれば、どんな神もその人を苦悩に陥れることはできない。逆に、ある人の心にいったん渇愛が生じたら、宇宙の神々が全員揃っても、その人を苦しみから救うことはできない。救う道はゴータマの一連の瞑想術による心の鍛錬だけである』。
著者は、このようにゴータマの悟りとは渇愛という心の働きを支配する激しい喉の渇きにも似た衝動の発見と克服の方法にあると結論づけた。
以上の様に著者は宗教を最初にかかげた「超人間的な秩序の信奉に基づく人間の規範や価値の体系」と定義して、有神論の宗教と自然法則の宗教に分類した訳です。
その上で、近代における自由主義や共産主義、資本主義、民主主義、ナチズムをイデオロギーと称するが、それはただの言葉の綾にすぎず、自然法則の新宗教だと主張する。
『ソ連の共産主義は狂信的で宣教を行う宗教だった。敬虔な共産主義者は、キリスト教徒や仏教徒にはなれず、自分の命を犠牲にしても、マルクスとレーニンの福音を広めるのが当然と思われていた』。つまり、その教義は普遍的であり強力に宣教されていたのである。
だからソ連の共産主義はイスラム教と比べて何ら遜色ない宗教なのだ。ただイスラム教は世界を支配している超人間的な秩序を、万能の造物主である神の命令と見なすのに対して、ソ連の共産主義は神の存在を信じていなかった。仏教は神々を軽視するが宗教に分類される。そして仏教徒と同様、共産主義者も人間の行動を導くべきものとして、自然の不変の法則という超人間的秩序を信じている。だから共産主義と仏教は類似性ある宗教ないし、イデオロギーと分類して論じている。
著者はこの分類に非常に不快を感じる読者がいるだろうと付言しているが、私は大きな違和感を感ずるその1人です。
違和感の一つは、お釈迦さまの悟りの本質を「渇愛」という、激しい喉の渇きにも似た衝動に支配された心の振る舞いの様式に限定している事です。後に詳しく述べるように、悟りの本質は渇愛でなく、心の振る舞いの様式に限定されたものでもありません。
違和感の二つ目は仏教の歴史上の論争の経緯に全く触れていない事です。一神教も共産主義にもその教義や解釈の違いをめぐって常に、数万人、数十万人、数百万人もの残酷な殺戮の歴史がある。仏教にも教義の違いをめぐる数百年にも渡る論争はあったが、殺し合いとなった事例は1つとしてないがこの事の記述がありません。この事に著者は公正に欠きます。]]>
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故 石牟礼道子さんと水俣病患者
しばらくブログを休止してましたが、どうしても書かなければと思う出来事がありました。先般亡くなられた「苦海浄土」の作者、石牟礼道子さんの事です。
新聞各社は評伝を掲載して、深い哀悼と惜別の思いを語り、その作品と人柄の高潔さを称えている。その中で2018年2月11日付、日本経済新聞「春秋」の記事に私...
新聞各社は評伝を掲載して、深い哀悼と惜別の思いを語り、その作品と人柄の高潔さを称えている。その中で2018年2月11日付、日本経済新聞「春秋」の記事に私は目頭が熱くなる思いをしました。
『同業から神格化される作風だが、本人は「三部作は我が民族の受難史と受け止められるかもしれないが」とやんわり否定する。自分が描きたかったのは「海辺の民の生き方の純度と馥郁たる魂の香りである」。すでに水俣病の公式発見から50年近くがたっていた2004年、そう書き残している。患者らの中には「もう何もかも、チッソも、許すという気持ちになった」、「チッソの人の心も救われん限り、我々も救われん」と語った人もいたという。「人を憎めば我が身はさらに地獄ぞ」。石牟礼さんは患者のこんな言葉を書き留めている。
近代文明の「業」の犠牲となった漁民らは苦しみ、戦い、そして最後には許すまでに至った。その道程に人間の気高さがあらわれている。憎悪や分断に常にさらされる世界で「生き方の純度」や「魂の香り」、意味を問い続けたい』
成人男女、子供だけでなく母体の中の胎児まで患者になった悲惨な事件を12年もの間、責任を認めなかったチッソ経営陣の無責任さを今も知る市民の気持からすると、石牟礼道子さんの著書によって生み出されたこの患者の心境の変化は一体なんなのか?
皆さんはこの患者の真心をどの様に思いますか?
私はブログ『(8)お釈迦さまの悟り「縁起の法」とは何か、その③』に書いたバターチャーラー比丘尼を思い起こしました。
バターチャーラーは二人の子供、夫、両親を悲惨な事件によって次々と失った女性です。子供の亡骸を抱きかかえて方々をさ迷います。最後にお釈迦さまに亡骸を差し出して「生き返らして下さい」とお願いします。お釈迦さまは優しく諭します。「この村を一戸一戸訪ねて、死者が一人もいない家族を探しなさい。もし一戸でも探し出したら再生してあげよう」。
勿論、そんな家族はある訳はなく、バターチャーラーは子供の死を受け入れます。かって下衣もつけず、狂気のように子供の亡骸を抱き抱えて歩きまわったこの女性は、お釈迦さまに救われて出家し、比丘尼となりました。
それから数十年たったある日の事です。「彼女は水辺に映るおのれの姿をじっと見つめた。やがて足を洗った水が高きより低きに流れて消えていくのを眺めていた。夜が更けて彼女は灯心を掻き下げた。火が消えたとき、彼女は解脱した」。
私が理解する所により、この文章の意味を解いてみます。
「バターチャーラー比丘尼は不幸な事件で二人の子供を失った母親、非業の死をとげた男の妻、悲惨に人生の幕を閉じた両親の娘、狂気となり下衣もつけず子供の亡骸を抱えて村々をさ迷った女、という形容と差別から解放され、お釈迦さまの直弟子として修行した比丘尼として真実の姿を、水辺に映るおのれの姿の中に見た。足を洗って汚れた水が高きより低きに流れて消えていくのに自然の摂理を感じた。そして精舎の自室のベットに坐っていた夜更けに、縁(よ)って燃えるものを失って灯火が静かに消えていった時、お釈迦さまが説かれる燃え尽きる五の意味に気付き、縁起の理法を感取して解脱した」のです。
私はバターチャーラー比丘尼が解脱に至るまでの長い間、お釈迦さまの教え、言葉や形象による伝達を超える最高の伝達である思念(テレパシー)による伝達があったのだろうと考えていた。
しかし聖者とその弟子という関係はそうした宗教上の聖者とその弟子という関係だけでなく、実は我々の一般社会のさまざまの場面、局面にもあるのではないかと、石牟礼道子さんと患者の関係の中に感じたのです。
チッソと水俣の人々、メチル水銀と水俣の豊饒の海という、本来は何んの関係もない両者の結びつきが悲惨な事件に発展した。この中で石牟礼道子さんと水俣病患者との間に生まれた純粋で深遠な境地は、私達が書物でしか知る事が出来ない、「仏性」と云うものでないでしょうか?お釈迦さまとバターチャーラー比丘尼、石牟礼道子さんと患者との関係にはどんな違いがあるのでしょうか?
お釈迦さまとバターチャーラー比丘尼の物語は2500年後の今なお語り継がれている。石牟礼道子さんと患者の物語も末永く語り継がれるべき物語ではないでしょうか?
平成30年(2018年)4月15日
武田 紀久雄]]>
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2018-04-15T11:21:24+09:00
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皆様へ
私が半生かけてまとめ上げた般若心経の講説のまとめは、下記の「Ⅰブログ原稿について、(1)回~(62)回、全112ページ」と「Ⅱ私が般若心経についてやりとげた事」の2つです。ブログ、HPに毎月、欠かさずアクセス頂いている皆様に深く感謝致します。何か質問等ありましたら下記アドレスへご連絡下さい。
最...
最近、私はネット上の通信システムでアメリカの特許を取得しました。(通信システム、日本特許、5,256,367、アメリカ特許9,858,599)。新しい伝達シーケンス(制御対象に加える操作の順序)に関するものです。各人の携帯電話番号を基点に、恐らく現在実用化されている全てのネット上取引やネット情報の流通をより安全に実行可能となる通信システムです。知人のアメリカ人で大手企業のエンジニアが「これがアメリカで事業化されると、アメリカのネット社会を変えてしまうだろう」とコメントしてくれました。
しばらくは、般若心経を離れて特許事業化に色々と手をつくしたいと思っています。
平成30年1月10日
武田紀久雄
E-mail:takeda.cpa.office@sirius.ocn.ne.jp]]>
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武田紀久雄
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ブログ原稿について
Ⅰ ブログ原稿について。(1)回~(62)回、全112ページ
ここに綴られた講説は平成27年(2015年)4月から平成28年(2016年)12月25日まで、毎週日曜日、ブログにアップロードしたものです。この動機はNHKテレビテキスト「100分de名著」の内容にあきれて、それを糺すつもりのものでし...
ここに綴られた講説は平成27年(2015年)4月から平成28年(2016年)12月25日まで、毎週日曜日、ブログにアップロードしたものです。この動機はNHKテレビテキスト「100分de名著」の内容にあきれて、それを糺すつもりのものでした。それが筆が止まらず私の冊子「般若心経の空とはなにか」と重複しつつ、その内容を補完するものになりました。(1)回~(37)回、P1~P62がそれです。
しかし筆はなお収まらず、年来の課題であった「唯識仏教」に挑戦した。何故なら、私は断片的な知識で唯識仏教の興隆にこそ、般若心経を誕生させた往事の神秘的修行者の動機があったと考えていたからです。この事は私の冊子「般若心経の空とはなにか」の冒頭に綴り込んだ一覧表「般若心経誕生までの仏教史の流れ」を見れば一目瞭然です。この一覧表は冊子の内容を表にしたものですが、作って一覧して我ながらびっくりしました。
お釈迦さまが入滅されて700年後、唯識仏教が興隆した同時期に般若心経が誕生しているのです。そして一覧表最下段の論点「実在の否定→実在の肯定」を繰り返した700年に渡る仏教史の変遷は、如実に般若心経誕生の真実を示しております。何故、仏教者、仏教学者がこうした仏教史に注目しないのか不思議でなりません。
こうした事実を踏まえて、ブログでは(38)回~(52)回(P63~P90)で唯識仏教について私の知る所を述べ、(53)回~(60)回(P91~P110)で唯識仏教の大乗仏教としての限界となる2つの論拠を明示したものです。そして最後の(61)回と(62)回では、般若心経が魂を救済する神秘的力を具現する呪、つまり真言について冊子より少し詳しく解説しました。
又、(51回)では冊子「般若心経の空とはなにか」の冒頭に「お釈迦さま(ゴータマ・ブッタ、釈尊)がさとりを得て仏陀になられた、修行者としての最後の瞑想」の偈を綴り込んでいます。この偈の前半は「さとりを得て仏陀になられた事」を語り、後半は「仏陀として最初の智恵、四諦の法門を語る」ものです。この仏教史上、最も基本的で重大な意義をもつ偈について語った仏教者は、私が知る限りでは玉城康四郎氏の他は中村元先生、阿含宗開祖桐山靖雄師だけです。この偈について語らずして仏教者、仏教学者と云えるでしょうか!
Ⅱ 私が般若心経についてやりとげた事
次の2つです。
(1) 般若心経を文章として(英訳可能の)解説した。「般若心経の空とはなにか」の冊子において般若心経を「起承転結」に分解して文章として解説した。歴史的に実在するお釈迦さまの存在、その修行(空の瞑想)、空の真理とその歴史的変遷、そして真言の力について述べた。
(2) お釈迦が入滅されて700年後に般若心経が誕生した原因は唯識仏教の興隆にあるのを明らかにした。
唯識仏教は他の大乗仏教宗派から「権大乗(劣った大乗)」と評価された理由をブログ(53)回から(60)回(P91~P110)で明示したが、この事こそお釈迦さまの悟りの真理を、自らの深い瞑想の中で体験する神秘的修行者を、般若心経誕生へつき動かしたのだと、私は確信しているのです。
平成30年(2018年)1月10日
武田紀久雄
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(なお、般若心経武田紀久雄でもアクセス出来ます)]]>
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(62)般若心経の呪について その②、神秘的修行者への拝礼
呪は本来、秘儀であり師が弟子に口伝するものです。弟子は口伝され、真理
に目覚めさせられた時にのみ、そのかくされた意味を発見するという。また、
呪はそれぞれ目的があり、目的にそって伝授されます。
呪のもつそうした意義からすれば、般若心経の呪は不思議です。般若心経は
成立時から呪を含み、他の経典と同...
に目覚めさせられた時にのみ、そのかくされた意味を発見するという。また、
呪はそれぞれ目的があり、目的にそって伝授されます。
呪のもつそうした意義からすれば、般若心経の呪は不思議です。般若心経は
成立時から呪を含み、他の経典と同様に修行者、在家信者に読誦されてきたと
考えられるからです。こうして呪は公開された形で誦唱されながら呪としての
目的が特に示されていないのです。
お釈迦さまは35才の時、ナイランジャー河畔の菩提樹の下で成道された。自
らが創案された瞑想の中で縁起の法というこの世の真理を発見された。そして
縁起の法は、のちに龍樹によって空の論理として体系づけられました。
全ての存在は相互依存関係の中で生成消滅を繰り返すもので、未来永劫に変
わらない実体はない、というこの世の真相です。
空の理法は人間個人としてのさまざまの性格や人生の要因、人間社会で形成
される富、名誉、地位、権力など、人間と人間社会をのみに貫徹する真理では
ないのです。
物理的、化学的な現象としての物質的世界、唯識説が明らかにした三世にわ
たり流転する魂、つまり「我」の世界など、あらゆる世界を貫徹する、この世
の唯一にして絶対的真理なのです。
宗教学者の中沢新一氏が「仏教とは宗教のさきにあるものをめざす宗教」と
いう言葉の意味は、まさにこのことを指すのではないでしょうか。
この尊い理法を永遠に人類社会の歴史の中で、途絶えることなく引く継がれ
ていく仕組みとして、今は名も知ることのできない聖者、あるいは聖者の集団
が般若心経を書き残したと私は信じております。
般若心経には歴史的事実としてのお釈迦さまの悟り、お釈迦さま入滅後に流
転した真理を実在論を否定する形で確認して簡潔にまとめ、最後にその中を一
貫して流れる「空」を象徴する呪が収められました。
呪は、般若心経を護持して、読誦し写経する人々に大きな力を与えるものと
して定められたのです。
超人的な学習能力を求められる修行者にはその能力を、諸仏と自己を一体化
させて悟りを求める修行者にはその道を拓く力を与え、又、在家信者には除災
招福をもたらすものとして、呪は構成されている。要するに、般若心経の呪は
万能の呪なのです。
何故そのように断定できるかといえば、般若心経「結」一節の部分にある次
の言葉です。
「~是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪」。
「これはおおいなる神秘の呪である。これはおおいなる智慧の呪である。こ
れは至高至上の呪である。これは万物無比の呪である。」
この4つの形容は1つだけでも大変な賛辞です。これを4つも重ねるという
ことは尋常なことでありません。特定の経典、あるいは呪で、これ程の賛辞を
与えられたものはあるのでしょうか?。多分、般若心経の呪以外にないでしょ
う。
般若心経を残した聖者は歴史の激変と歴史の風化に耐える最強の手段として、
般若心経にこの呪を与え、お釈迦さまの説かれた真理の永続を願ったのです。
これが般若心経の呪の宗教的意義です。
私は、ここでこの般若心経を私達に残してくれた聖者と、聖者の集団に、心
から感謝を込めて拝礼致します。
終り
追 記
昨年の4月から始めたブログが、途中一時中断しましたが、この日12月25日(日)の62回目で、やっと終了の日を迎えることが出来ました。
HPの般若心経の冊子とこのブログに書かれた事柄が、私の仏教に関する知識の全てです。
私は1987年10月頃、中央経済社の「旬刊経理情報」という、会計実務の専門誌に「試験研究費」に関する論文を1年がかりで書き上げて掲載してもらったことがあります。それは会計上、税務上の考え方をまとめたものですが、そのおかげで「試験研究費という窓」を通して、会計の本質をよく理解出来た、という経験があります。
この度は「般若心経という窓」を通して仏教の本質とその歴史をよく理解出来た気持ちでおります。
私のHPとブログを通して皆様の仏教への理解が進み、お釈迦さまと龍樹菩薩、そして般若心経を完成された名も知らぬ神秘的修行者の偉大さに思いを馳せて頂ければ幸甚に存じます。
平成28年12月25日
武 田 紀 久 雄
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2016-12-25T11:21:36+09:00
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(61)般若心経の呪について その① 呪の意義
私は般若心経の宗教上の意義としてホームページにも記載してあるとおり、
次の三つを掲げてあります。
悟りの完成というお釈迦さまの歴史的事実を宣布した事。
仏教の教説をお釈迦さまの真意に回帰させた事。
般若心経の真髄を「呪」として全ての人の修行ないし信仰上の徳目とした事。
この①と②については、こ...
次の三つを掲げてあります。
悟りの完成というお釈迦さまの歴史的事実を宣布した事。
仏教の教説をお釈迦さまの真意に回帰させた事。
般若心経の真髄を「呪」として全ての人の修行ないし信仰上の徳目とした事。
この①と②については、これまでのブログの内容とホームページに掲載した
冊子で十分述べたので、最後に③の呪について少し詳しく説明します。
呪は元々、祝と同義で使われる言葉です。呪又は祝の原義は神に告げる言葉でした。そこから、祈り願う(呪願又は祝願)、のろう(呪詛又は祝詛)、まじない(禁呪又は禁祝)の言葉を意味するようになり、こうした道術を総称して呪術と呼ぶようになったものです。
こうした漢語の意味の呪が、サンスクリット語の仏典の漢訳で主としてダラニ(陀羅尼)の訳語とされました。
陀羅尼は修行者が心の錯乱を防いで集中し、説教を記憶し保持する呪文として用いられた。
真言はサンスクリット語のマントラの訳ですが、マントラも呪とも訳されます。マントラは元々、バラモンの僧によって誦唱された習俗を仏教の密教が取り入れ、中国に密教が伝来した際にその呪句(マントラ)が真言と訳された。
マントラは神々に対する呼びかけや祈願の句です。この句自体に神聖な力が宿っており、神々をもその意味のごとくに支配するものと考えられ、この力に依頼して公的私的な祭祀において誦唱された。
ダラニとマントラは本質的には同じ機能を持つとされるが、ダラニは比較的長く、帰敬の辞で始まり、形容語句を連ね、祈願して、最後に「ソワカ」で結ぶ形式が多いとされます。
般若心経の呪は「ギャテー、ギャテー、ハラギャテー、ハラソーギャテー、ボージソワカ」とソワカで結ばれているので、形式としては陀羅尼です。
しかし、現代の仏教経典上も仏教学においても真言、陀羅尼、呪は明確に区別されていないようです。密教でも「真言陀羅尼」と、ひとつにくくられていわれることがあり、その区分は明らかでありません。
そこで、般若心経の呪を、陀羅尼(ダラニ)、真言(マントラ)と同じ宗教上の意義をもつものと考えて、呪の意義と目的をまとめてみます。
大乗経典は時代とともに変化し、縮小される傾向が出てきて、ダラニ化し、マントラ化していきます。
般若経もあまりに長大かつ難解であったため「八千頌般若経」から「百頌般若経」そして「般若心経」に縮小され、「呪」に収められました。
経典の縮小から、ダラニ、マントラ、あるいはビージャ(一シラブルの種子マンダラ)という呪への縮小は経典の要約的神秘化の過程と見ることができますが、呪は論理としての言葉でなく、神秘的な啓示であるといわれます。般若心経の呪も、般若心経が指し示す「空」の真理の総合的、直観的そして直証の象徴だという。
その一方で呪は神秘的な体験をもつ者にのみ真の意義を開顕し、そうでない者には全く無意味な言葉にすぎないとされます。呪は師から直接に伝授されてのみ意味をもち、そうでない場合は、言語上の意味を分かっても、何の意義をもたないとされるのです。
呪の目的、呪を誦唱することによる効果は、おおむね次の3つにあると考えられます。
ⅰ)修行目的のすみやかな達成のため、経典や経典の意義を全て記憶するという普通の人にはなし得ない超人的記憶力の獲得を目的とする。
ⅱ)言葉で表現不能の宗教的真理の体得を目的とする。これは呪の誦唱によって諸仏の本体と自己とを一致させて悟る、とか、呪の誦唱によって宇宙的霊魂との一致を体得する、という意味と考えられる。
ⅲ)自らの、あるいは他の人の除災、招福を目的とする。
以上3つの他に、呪そのものの目的は考えられるが、仏教教義上はこの3つ
であろうと思います。]]>
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2016-12-11T16:43:09+09:00
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(60)般若心経誕生の秘密
作年の4月は始めて以来、一時中断もありましたが、1年半経過してしまい
ました。
ここでやっと私が考えていた結論をまとめられることになりました。
私は神秘的修行者がお釈迦さまが入滅されて700年も経過してから、お釈迦
さまの悟りの真髄「空」を簡潔にまとめた般若心経を書き残す動機をもったの
は、実在...
ました。
ここでやっと私が考えていた結論をまとめられることになりました。
私は神秘的修行者がお釈迦さまが入滅されて700年も経過してから、お釈迦
さまの悟りの真髄「空」を簡潔にまとめた般若心経を書き残す動機をもったの
は、実在説に傾く唯識説の誕生とその興隆にあったと考えるのです。
第一に五姓各別説の無姓有情の一つ「無姓」は未来永劫、決して「心のやす
らぎ」を得られることはないとの教義により、唯識仏教は「実在説」を採る宗
派となった、と私は考えます。
第二に六種五十一の心の作用を主張することです。この教義は、お釈迦さま
が入滅されてから400年後に興隆を極めた説一切有部の実在する「五位七十五
法」を彷彿させます。
説一切有部の主要教義の一つである「五位七十五法」((19)回から(21)回
参照)は実在の全てを五つの領域、つまり「物質」、「心」、「心の作用」、「心と
結びつかない他の四つのもの」(以上有為法)、因果律の制約を受けないもの(無
為法といい、涅槃、菩薩等)に分類して、その中身を構成する七十五に区分し
た説です。
説一切有部は実在する七十五種の要素は森羅万象を構成する要素にすぎず、
存在そのものでないから、そのことと無我説は矛盾しないと強調した。
そしてこの精密な論理が、当時の仏教集団の主流となった時、空を説いて対
決する修行者が出てきて、さらに龍樹の出現により五位七十五法は完全否定さ
れた。
私は般若心経を書き残した神秘修行者は、興隆しつつある唯識説に、その300
年前にあった説一切有部の教説に同じ傾向を感じ取ったと思うのです。そこで
五姓各別説、心の六種五十一説を否定してお釈迦さまの空への回帰、確認のた
め般若心経を完成したと考えるわけです。
般若心経で唯識説に全くふれないのは、輪廻する魂(我)の正体を明瞭に解
明した唯識説に敬意を表しつつ、実在説の傾向をもつ五姓各別説と六種五十一
説を同じ実在説の説一切有部を徹底否定する型で否定して般若心経を完成した
のではないかと私は考えるのです。
私の般若心経解釈の特徴は全体を「起承転結」に分解したことです。そして
「起」に続く承転結を一節と二節に分けて、二節は一節を別の表現で強調して
いるものとして解釈しております。
今日でも仏教修行者が般若心経の内容で重視する視点は二つの立場があるよ
うです。
一つは「起」を重視する立場です。仏伝文学によればお釈迦さまは前生にお
いて修行者として仏陀になる前の段階「菩薩」になられていた。このことから
般若心経の作者は、仏陀になられる直前のお釈迦さまの修行の姿を
「観自在菩薩」と表現した。こうした経緯もあり大乗仏教ではお釈迦さまを神格化す
るあまり、「歴史的存在観」が薄れているきらいがありました。そこで「起」を
重視する立場では、お釈迦の前世における修業中のお姿をあらわす観自在菩薩が「行、深、般若
波羅密多時」、つまり「智慧を完成する瞑想を深く行じていた時」、「照見、五薀、
皆空」つまり「一切現象はすべて空であるさまをありありと見て」、「度、一切
苦厄」つまり「一切の苦しみと災いから解放された」として、歴史的事実、歴
史的現実を重視したのです。
最近の中山伸弥教授のヒトiPSのように偉大な発明発見には必ず偉大な先駆
者がおります。誰れかが発見した、発明したという前例があると、その前例に
より次に続く研究者が続々と出現します。
「起」も同じで、悟りを得た先駆者を強調して、それに続く修行者にトーチ
をかざす役割を期待するのです。
もう一つは最後の「結」の「二節」にある「呪」を重視する立場です。この
立場は密教で特に重視されているようです。
この呪は「結」の「一節」にあるように最強の呪で、一切衆生のさまざまの形での救済に
役割があるとされます。
般若心経では最後の呪が大乗仏教における衆生済度の役割において特別に重
要な役割があるとされるので、このブログはあと2回程に渡って呪について少
し詳しく述べて終わりにします。]]>
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2016-12-05T15:38:15+09:00
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