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般若心経の空とはなにか

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サピエンス全史 2/3

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サピエンス全史 2/3

「サピエンス全史」の仏教に対する誤解について
-3の2-
2019年8月2日
以下、一つ目の違和感『お釈迦さまの悟りを渇愛という心の働きに限定した事』について詳しく述べます。

 お釈迦さまの悟りの本質について、仏教集団において数百年に渡る論争がありました。渇愛とは対象に対する本能的な強い執着、欲望のことで、インド語原語の意味から「喉の渇き」に喩えられた。初期仏典では渇愛は苦の源泉とされ、サンユッタ・ニカーヤに「渇愛を捨て去ることによって涅槃がある」との文言(仏教辞典より)があります。

 しかしこの考えはお釈迦さまの重要な説法にかかわるものですが、お釈迦さまの悟りそのものではない。お釈迦さまが、説法として苦しみの大きな原因の1つとして激しい心の働きについて語ったもので、悟りをめぐる1つの仏教集団による1つの結論に過ぎない。しかも間違った結論です。

 お釈迦さまの悟りとは「縁起の法」です。縁起とは「縁によって生起する」ことで、物事は必ず原因と条件に依存して生起する事を意味し、生存の苦悩は「縁って」生起し、変化し、消滅することを繰り返すものです。そしてお釈迦さまはこの縁起を「人間の心のみの真理」として説かれた訳でもない。この世に存在する一切の生命現象や、森羅万象を貫く絶対的真理として縁起を説かれたのです。

 お釈迦さまに「火の喩え」という法話があります。
 以下、「空の思想、仏教における言葉と沈黙」梶山雄一著、人文書院より引用します。
 『尊者マールンキャはブッタに「世界は常住であるか、無常であるか?」、「世界は無辺であるか、有辺であるか?」、「霊魂と身体は同一であるか、別異であるか?」、「如来は死後存続するか、存続しないか?」等、形而上学的疑問について質問した。同じくヴァンチャゴッタも同様の問題について質問してブッタが意見を述べないのに対して落胆してブッタへの信頼を失ったと申し上げた。
そこで、ブッタは「火の喩え」をもってヴァンチャゴッタに反問する。

 <ブッタ>
  お前の前に火が燃えているとせよ。ひとが「この火は何に縁って燃え
 るのか」と問うならば、お前はどう答えるか。

 <ヴァンチャゴッタ>
 この火は草や薪によって燃える、と答えましょう。

 <ブッタ>
  その火が消えたとして、その火はここからどちらへ去ったのか。
 東、西、北、あるいは南なのか。

 <ヴァンチャゴッタ>
  そうは云えません。実はその火は草や薪によって燃えているので、
 他の草や薪が加えられなければ食無として消えてしまうだけなのです。

<ブッタ>
 如来は物と心とのいずれよりも解放されているのであって、
その死後どこかへ行くのでもなく、行かないものでもない。根を断た
れ本を抜かれたターラ樹のように非有に帰せられ、生じないものとな
るだけである。』

 お釈迦さまはヴァンチャゴッタに火の喩えをもって如来、つまり悟りを
得た修行者について「非有に帰せられ、生じなしものになるだけです」と答えている。
そして、この答は如来のみについてお話している訳でない。たまたま「火の喩え」をもって如来を語っておられるが、この「火の喩え」は、この世の存在の全てにあてはまる真理なのです。
人の喜怒哀楽の心は喜怒哀楽を心に生じさせるその人自身が持つ原因と条件に「縁って」生起し変化し消滅するだけです。

人、動物、植物等の生命現象も、その生命現象特有の原因と条件に「縁って」、営まれるものです。全ての天変地異も同じです。龍樹菩薩が説かれるように、この世に他に依存せず(自立的)、絶対に変化せず(恒常不変)、単一であるという実在の3つの要件を満たす存在は皆無なのです。

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