前回紹介した西村公朝師は明快に「魂と輪廻は存在する」と説かれている。これは仏教の真髄にせまるもので、そもそも仏教誕生の根本的原因となったものは「魂と、魂の輪廻」なのです。宗派仏教の教義と活動の中にすっかり埋没してあまり語られる事のないその事実を、西村公朝師はずばり指摘しておられる訳です。
私の冊子「般若心経の空とはなにか -お釈迦さまの悟りと龍樹による再生、般若心経を完成した聖者-」、をここに掲載します。この文章の骨子は梶山雄一著「空の思想。仏教における言葉と沈黙」、人文書院 から引用したものです。
(7)初転法論
古代インド人の悩み
当時のバラモン思想では実在して永久に流転する我、「アートマン」が説かれていた。 アートマンは悪行により闇の世界に落ち、善行によって天界に生まれるとされた。そしてたとえ天界に生まれて美しい花園、華やかな音楽と舞、贅をつくした食物と酒を楽しみ幸せな時を過ごしても、それは一時的なもので、善行の果報を享受し尽くすと再びこの世に戻るのである。
こうして転生する生存は楽しみ喜びもあるが苦しみも多い。王侯貴族などの支配階級に生まれるか貧しい農夫に生まれるか、さらには犬やけものや虫に生まれるかにより、その貧窮や苦しみに大きな違いが出てくる。そこで苦しみ悩みが少ない階級に転生するため善行に励まなければならないことになる。
しかし、どんなに善徳を積んでも時がおとずれ、善悪、徳不徳が計られて最後の審判により、苦しみの輪廻を終えられることはない。人々を深い苦しみと悩みから救い出す神が存在するわけでもない。この時代のインド人にとって輪廻は無限の不安の種であり、何よりも現実の苦悩であった。
このように、王侯貴族に生まれて、死後の天界におけるような幸せなくらしにめぐまれたとしても、生老病死の四苦、愛別離苦(愛する者と別れ離れなければならない苦)、怨憎会苦(怨みや憎しみの人と会わねばならない苦)、求不得苦(欲しいものが得られない苦)、五蘊盛苦(そもそも身体と心が盛んである事の苦)という四苦八苦をまぬがれる事は出来ない。そのような苦を伴う魂の輪廻は無限に続くと考えていたが、それは自己の魂、つまりは我(アートマン)を永久に不変不滅のものと考えた当時のバラモン思想の当然の帰結であったのです。
そうした中にお釈迦さまが現れて、「輪廻は止滅できる。なぜなら永久に不変不滅のアートマンは実在しない(無我)からだ。」と説かれたのです。
無我とは我が虚無で夢まぼろしのようなものという意味でなく、我つまり魂は縁起的存在であり、因(原因)と縁(因を助ける条件)により変転し流転するのであり、不変不滅のものとして実在するものでないと云う事です。
縁起的とは縁起の法(空)の事で、全ての存在は相互依存の関係で生成消滅を繰り返すだけで、相互依存の関係はどこまで続く無限連鎖であり、その中に永久に不変不易の実体は存在しないという事です。物質とか現象として存在するが実体がないという意味では実在論(有の立場)と異なり、現に物質とか現象として存在するという意味で、全てが夢まぼろしの如きものだとして存在そのものを否定する虚無論(無の立場)とも異なる。
このお釈迦さまの説法は、当時のバラモン思想が主流をなす世界にあっては革命的な教えであった。そのためさまざまの集団から、後に十大弟子と云われた優れた人材がお釈迦さまのもとに集結し仏教は興隆した。
こうした優れた弟子、大勢の修行者が最も悩み恐れたものは何か?
それは四苦でなく、四苦八苦でもない。四苦八苦の「実在」と、永遠に途切れる事なく続く四苦八苦の「輪廻」なのです。
この輪廻に対する恐れは般若心経にも説かれているので、その事は次回述べます。