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般若心経の空とはなにか

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サピエンス全史 3/3

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サピエンス全史 3/3

「サピエンス全史」の仏教に対する誤解について
-3の3-
2019年8月4日
 大乗仏教を代表する経典の一つに華厳経があります。
このお経で繰り返して説かれる教理が「一がそのまま一切であり、一切がそのまま一である」を意味する「一即一切」(いちそくいっさい)です。これは「一つの塵の中に全宇宙が宿り、又一瞬の中に永遠がある」とも表現される有名な教理です。

 まことに不思議で私達の日常生活の感覚とは全くかけ離れた教理です。
しかしお釈迦さまの悟りである「縁起」、そして「縁起」に言葉の意味として潜在していた「相互依存性」を明らかにした龍樹の「空」の論理をもって考えると、不思議とは云えない実感に打たれます。

 龍樹はまず「実在」を次の三つの要件で定義する。『実在するものは他に依存しないから「自立的」である。実在するものは絶対に変化しないから「恒常不変」である。実在するものは複数では有り得ないから「単一」である。この世に自立的で恒常不変で単一のものは存在しない。もしあるとすれば、それは言葉の世界だ。』

 この世の全ては他に「縁って」存在し相互依存の関係の中で生成、変化、消滅を繰り返すだけです。これは人間の喜怒哀楽の心を含む動植物の生命現象も、宇宙天体を含む天然自然を含む一切を貫徹する唯一の原理なのです。

 「一即一切」の教理は現代の物理学の知見によって論理的に明快に説明出来ます。
 物理学は私達が目にする物が「物質→分子→原子→素粒子→クォーク」の階層によって構成されている事を明らかにしている。それでは物理学によって実証的に観測され確認されているクォークは、この世界の最小単位の物質でしょうか?

 量子力学の世界では長さの単位が原子の10-10メートルから、プランク・スケールと呼ばれる10-35メートルまである。同じミクロンの単位の中でも原子とプランクスケールとでは25桁の違いがある訳です。一方この25桁は、地球の直径が12,800km(1.28×107メートル)で、観測可能とされる宇宙の直径200億光年(2×1023km)との計算上の差19桁より大きい。

 私たちが知り得る宇宙より、原子の空間がはるかに広大なのです。まさに「一即一切」の現実です。

 しかもプランクスケール10-35メートルは量子力学の世界で最小単位とされる長さの単位ですが、それは理論的に計算上想定されているだけで、実際の究極の単位ではない。空の論理によれば、他に依存せず、恒常的に変化せず、単一の実在は有り得ないから、相互依存の関係は無限の彼方へ続くので、小ささの単位は「無限小」なのです。

 観測可能な宇宙の直径が200億光年としても、それは宇宙の観測可能性の限界です。直径が200億光年を一つの宇宙とすればさらにその四方八方には現代の技術では観測出来ない宇宙世界が広がってる訳で、神の如く全宇宙を俯瞰できれば200億光年の宇宙とは私達がいま見ている星空の一つの星座みたいなもので、200億光年を一つの星座としてその外にさらに無数の星座が散らばる無限の宇宙空間が続いているはずです。

 つまりは物質世界あるいは空間世界とは「無限小」でかつ「無限大」なのです。
現在の宇宙は天地開闢の大爆発によって誕生したとされる説、ビッグバンがある。物理学の計算上、ビッグバンによって宇宙生成されるまでの時間は数千万分の一秒だそうです。200億光年の宇宙世界がまさに「一瞬」にして誕生した事になります。それが無始の昔から無終の未来に向かって連綿と無数に繰り返されているのでしょう。

 文字通り、華厳経の「一即一切」つまり「一瞬の中の永遠です」。多分、このお経を説かれた神秘的修行者は深い瞑想の中でこの事を如実に見ていたのでしょう。その事を現代の物理学者はその一端を数学的に検証したのです。

 こうしてお釈迦さまの悟り「空」とは空間的に、無限大でかつ無限小である事、時間的に始まりはなく終りがない事を意味している。人はそんな原理の中で喜怒哀楽の中で人と交わり、動植物を含む天然自然の中で無限の苦の生死を繰り返している。

 お釈迦さまは「智恵を完成する瞑想」(般若波羅蜜多)によってそうした終りのない相互依存の世界からの解脱を説かれているのです。

 しかし、それにしても「空」とは「始まりもなく終りもない世界」、「無限大にして無限小の世界」を示すものだと言葉の意味として分っても、感覚的に理解不能の世界です。それだけでなく私は最近もう一つ不思議な現象を知りました。昨年、チベット仏教のダライラマ法王が来日された。その招聘元の団体の代表の方と懇談する機会がありました。

 色々と話が弾む中で私は質問した。「チベットや東南アジアの仏教国では般若波羅蜜多、つまりお釈迦さまの瞑想で智恵の完成を得て解脱された修行者が少なからずおられるのではないか?」。その答えは不思議なものでした。「ございます。坐禅の姿のまま亡くなられた方で遺体が腐敗しないので遺体を特殊な塗料で装って、寺院に仏像として安置される方がおられます。又、亡くなると遺体が次第に縮小してやがて消失してしまう方もおられます。」

 私はその会話で龍樹菩薩の伝説を思い出した。龍樹は最初の著書中論でこの教えのオリジナルはお釈迦さまにあると宣明して「空」を説き、大乗仏教の基礎を築き日本では八宗の祖と称されている。

 龍樹が亡くなった時、蝉が抜け殻を残して飛び去るように、衣を残して姿を消してしまった、と云う有名な伝説があります。

 解脱者が遺体ごと消失するというのは何千年前から現代迄続いている現象なのでしょうか?もし龍樹の伝説が実際の現象として存在しているのであれば、私達が展開する論理とか、人類史上もっとも発達した現代の科学技術をもってしても解明出来ない、不思議な世界に私達が生きているのでしょうか?。

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