「サピエンス全史」の仏教に対する誤解について
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2019年7月30日
最近知人にすすめられて「サピエンス全史」(ニヴァル・ノア・ハラリ著)という世界的ベストセラーを読んでいる。上下2冊の大著で、人類誕生以来の歴史を時代毎にその特徴をコンパクトに要約したものです。著者の博識と明晰さに圧倒されます。
しかし、下刊の仏教に関する記述に、私は考え込み読書を中断してしまいました。著者の知識の広さ深さ、論旨の明快さが仏教の所で急停止した感じでとまどってしまいました。
著者は仏教を誤解しています。仏教のなにを誤解しているかを述べる前に、著者の宗教にたいする考えをまとめてみます。著者は宗教について次の様に述べている。
『宗教は貨幣と帝国と並ぶ、人類を統一する三つの要素の一つだった』。そして『宗教とは超人間的な秩序の信奉に基づく、人間の規範と価値観の制度である』と定義し、そこには二つの異なる基準がある、とする。
『
1 宗教は、超人間的な秩序の存在を主張する。
2 宗教は、超人間的な秩序に基づいて規範や価値観を確立し、それには拘束力があると見なす。
そして、本質的に異なる人間集団が暮らす広大な領域を傘下に統一するためには、宗教は普遍的であると同時に、宣教を行うことが求められる
』
以上の様に述べた上で、宗教を神や神以外の超自然的存在を中心とする宗教と、自然法則に基づく神不在の宗教の二つに区分する。
前者にはアニミズムや多神教、善と悪あるいは神と悪魔という二元論宗教、そしてユダヤ教、キリスト教、イスラム教の一神教がある。ただし、一神教は多神教や二元論宗教を是認しつつ、そのさまざまの儀式や慣行を組み合わせた混合主義という様式の世界宗教と化している。その意味で混合主義こそ唯一の偉大な世界宗教なのかもしれないと述べる。
後者の自然法則を信奉する、神不在の宗教の代表が仏教である。著者は仏教をつぎの様に解説する。
『彼(ゴータマ、仏陀)は苦しみは渇愛から生まれる、と説く。そして苦しみから完全に開放される唯一の道は、渇愛から完全に開放されることで、渇愛から解放される唯一の道は、心を一連の瞑想術によって鍛えて、現実をあるがままに経験することである。苦しみは渇愛から生じるのは法則だから、もしある人の心があらゆる渇愛と無縁であれば、どんな神もその人を苦悩に陥れることはできない。逆に、ある人の心にいったん渇愛が生じたら、宇宙の神々が全員揃っても、その人を苦しみから救うことはできない。救う道はゴータマの一連の瞑想術による心の鍛錬だけである』。
著者は、このようにゴータマの悟りとは渇愛という心の働きを支配する激しい喉の渇きにも似た衝動の発見と克服の方法にあると結論づけた。
以上の様に著者は宗教を最初にかかげた「超人間的な秩序の信奉に基づく人間の規範や価値の体系」と定義して、有神論の宗教と自然法則の宗教に分類した訳です。
その上で、近代における自由主義や共産主義、資本主義、民主主義、ナチズムをイデオロギーと称するが、それはただの言葉の綾にすぎず、自然法則の新宗教だと主張する。
『ソ連の共産主義は狂信的で宣教を行う宗教だった。敬虔な共産主義者は、キリスト教徒や仏教徒にはなれず、自分の命を犠牲にしても、マルクスとレーニンの福音を広めるのが当然と思われていた』。つまり、その教義は普遍的であり強力に宣教されていたのである。
だからソ連の共産主義はイスラム教と比べて何ら遜色ない宗教なのだ。ただイスラム教は世界を支配している超人間的な秩序を、万能の造物主である神の命令と見なすのに対して、ソ連の共産主義は神の存在を信じていなかった。仏教は神々を軽視するが宗教に分類される。そして仏教徒と同様、共産主義者も人間の行動を導くべきものとして、自然の不変の法則という超人間的秩序を信じている。だから共産主義と仏教は類似性ある宗教ないし、イデオロギーと分類して論じている。
著者はこの分類に非常に不快を感じる読者がいるだろうと付言しているが、私は大きな違和感を感ずるその1人です。
違和感の一つは、お釈迦さまの悟りの本質を「渇愛」という、激しい喉の渇きにも似た衝動に支配された心の振る舞いの様式に限定している事です。後に詳しく述べるように、悟りの本質は渇愛でなく、心の振る舞いの様式に限定されたものでもありません。
違和感の二つ目は仏教の歴史上の論争の経緯に全く触れていない事です。一神教も共産主義にもその教義や解釈の違いをめぐって常に、数万人、数十万人、数百万人もの残酷な殺戮の歴史がある。仏教にも教義の違いをめぐる数百年にも渡る論争はあったが、殺し合いとなった事例は1つとしてないがこの事の記述がありません。この事に著者は公正に欠きます。