私は最初の冊子「般若心経の空とはなにか」をまとめあげた時（2008年8月）、
お釈迦さまが入滅されてから700年から900年後に、お釈迦さまの教えの真髄
をコンパクトにまとめたお経が何故生まれたのか不思議でした。しかも教理の
真髄「空」は菩薩思想と結合して大乗仏教として広がっていた時期です。

　2011年8月に冊子の要約を作成してさらに2013年12月改定版作成の際、
冊子の内容を一覧できる、「般若心経誕生までの仏教史の流れ」（ホームページ
参照）を作成してお釈迦さまの教理の変遷を「論点」の変遷として表の最下段
に記載していて気づいたことがありました。

　それは般若心経誕生とされる、お釈迦さま入滅されて700年後が唯識仏教の
始まりの時期700年後と一致するのです。それで唯識の教理をざっと一読して
後半の五姓各別の無姓有情のとりわけ「無姓」の論理を読み、これは「実在説」
だと確信して、前記表の論点の欄に唯識説を「実在の肯定」と書いたのです。

　そこで私は次のように想像した。当時はお釈迦さまの作法による「智慧を完
成する瞑想」（般若波羅密多）を実践する修行者は沢山おりました。その中でも
お釈迦さまが入滅されてから700年にも渡り、その教理の変遷にも詳しい神秘
的修行者が、「これは300年前の説一切有部（ブログ（19）回から（21）回参
照）の実在の教理が繰り返される」との危惧から、その歴史上の展開をふまえ
て、お釈迦さまの教理、理法の永続を願って般若心経を書き残したのではない
か、と考えたのです。

　唯識説に潜む実在説の根源は五姓各別の論理だけでなくもう一つの論拠にも
あります。それは、次の（59）で述べる、六種五十一の心の区分です。

　唯識では心を深層心としての阿頼那識と未那識、表層心としての第六識（意
識）と前五識に区分しました。そして、未那識に支配される第六識（意識）に
相応する心を六種のグループに分類された五十一の心所（心のはたらき）に分
けるのです。

　今現在、この地球上に７３億人もの人々が存在します。それを無始の昔に遡
り、終わりのない未来を思い巡らすとまさにかぞえきれない無数の人々がいる。
そしてその一人一人が無始の昔から阿頼那識に薫習された種子の蓄積も無数で
す。そのように考えると無数の人々の無数の心のはたらきは無限大です。その
無限大の心の終極点は無限小の彼方にある涅槃、菩提という心のやすらぎです。
無限大の心とは無始の昔から無限大の大河に渦巻く衆生の宿業の流れであり、
それが心のやすらぎという終極点に向かって流れる流体と考えるべきでしょう。

　唯識はこの心のはたらきを六種のグループに分類された五十一の心に限定し
ます。これは広大無辺のこの宇宙をわずか五十一に区分して存在の理由を言葉
によって固定するようなものです。

　そもそも、心とは大きな流れ、流動体であってその流れの断面を切り取って
定義づけしても意味のないことだと私は思うのです。
現代的に表現すればこの流動体はアナログであり、五十一の心を定義すること
はデジタルです。デジタルは言葉による現実の区分け、定義づけであって、宗
教的教義や実践に全くそぐわないのではと考えます。

　この様に考えると唯識は、その教理の構成そのものに特異なものがあります。
　ホームページの「Ⅰ、（2）、①般若の意味」で述べたように、智慧といっても
二種類あります。一つはジナナで、物事を分析的、論理的に思惟して、この世
の真理をきわめる最高の智慧で、叡智を意味します。もう一つはジナナをさら
に強調するプラという接頭語を付したプラジニアで、サンスクリット語の俗語
形でいうパンニャ（般若）です。プラジニアは思惟でなく、瞑想によって瞬時
にして究極の真理を直感的、直証的、総合的に得る智慧です。

　この考え方で表現すれば、唯識の六種五十一の心の分析はジナナの智慧です。
しかし阿頼那識の解明は、「空」を説いた多くの神秘的修行者と同じ修行者のプ
ラジニアの智慧によるものです。

　唯識はプラジニアの智慧により阿頼那識を解明しながら、ジナナの智慧によ
り五姓各別、六種五十一の心の実在を「言葉」で説くという、仏教史上、特異
な立場にあるのではと私は考えるのです。

　般若心経の言葉による表現は、プラジニアによる縁起の法をジナナの叡智に
より空の論理として解明するものであり、唯識のようにプラジニアによって得
た教義（実在の否定）とジナナによる言葉の教義（実在の肯定）との並列では
ないのです。