先日、私の冊子「般若心経の空とはなにか-お釈迦さまの悟りと龍樹の再生、般若心経を完成した聖者-」について尊敬する先輩公認会計士から電話でコメントありました。
「貴方の云いたい事が良く分かるし、内容も素晴らしい。しかし武田君!! 般若心経を信仰し、四国の88ヶ所詣りするような人達にとって、般若心経の文章としての意味とか、誰が書いたかということはあまり関係がないことなのだよ」
前段のお褒めの言葉は大変うれしいけれども、後段は意外なコメントで思わず返事の言葉につまってしまった。しかし電話を切ってから良く考えるとそれは中々含蓄ある助言で、読書家の先輩に敬服した。
私がこの冊子の中で説明している事でもありますが、「理解」するという意味に2つあるという事でしょう。
一つはジナナである。サンスクリット語のこのジナナ(jnana)の訳語は「智」(この智は般若心経の「無智亦無得以無所得故~」の智である)で、私達が、眼や耳、鼻、舌、身、意で感受する全ての事を、分析して差別し、相対化して知る心の作用で、世俗的だが非常に高度のはたらきで叡智ともいわれるものである。これは現代社会の自然科学、社会科学の全ての分野における思考方法です。
私達が日常生活や仕事の中でめぐらす思考はジナナ程に高度でないが、タイプとしてはいわば「ジナナタイプ」です。物事を分析して類型化し、価値判断して発言や行動に移していく。私のこの度の冊子もこのタイプの思考に属するものです。
もう一つはジナナに意味を強調する接頭辞プラ(pra)をつけたのがプラジニア(prajna)です。プラジニアの俗語形がパンニャ(panna)で、般若心経の般若はその音写語です。プラジニアの訳語は「慧」で、慧は智を含む意味をもつので「智慧」と訳されたといわれる。
プラジニアとは絶対的真理(空)を直観的、直証的かつ総合的に感取する智慧です。それはお釈迦さまが確立された作法、あるいは方法の「瞑想」の中で得られる智慧です。これはそうした瞑想を実践する修行者による伝達がなければ中々得られないものでしょう。
しかし、ものの本によればある研究の深義を求める人とか、人生のあらゆる辛酸を味わいつくした人がその極みで「アッ、そうか」と膨大な構造の全体像と全体像の要となる一つの真理に到達するような事があるといわれます。こうした理解は前述「ジナナタイプ」に対して「プラジニアタイプ」と云えないでしょうか。だとすれば般若心経を一心に読誦し又写経しながら、四国88ヶ所を巡礼するような実践的な人は、プラジニアタイプの体験、智慧を求める人と云えるでしょう。
私のような字面だけで解釈して実践のない人間は「ジナナタイプ」、般若心経の力を信じて実践的に活動する人は「プラジニアタイプ」と分けられるのかもしれない。そのように考えると私は思いおこす事がある。私が30代、40代の頃、市井の年配者でまことに含蓄ある人生の教訓を何気なくもらす人がおられた。言葉の内容は忘れてしまったが、長い人生の中で、幾属にも蓄積された体験が発酵してふつふつと浮き出てきたものなのでしょうか。
こうした人々の言葉、生き方も又「プラジニアタイプ」ではないだろうかと考えさせられました。
(infoseekブログよりデータを移行しております)