お釈迦さまの悟り「縁起の法」を龍樹によりさらに厳密に定義された「空の
論理」は、一切は複数の存在間の相互依存の関係で生成滅失を繰り返すもので、
永久不滅の諸法(諸ての現象)は存在しないことを教えるものでした。
仏教の根本原理として不滅のものは有り得ない、ということです。しかし唯
識仏教は五姓各別の無姓有情の一つ「無姓」は不滅なのだと主張するのです。
このため唯識仏教以外の他の大乗仏教から、唯識仏教は大乗仏教の一派に違
いないが、権教と位置されることになったのです。「権」とは「劣った」という
意味です。
このため中国仏教以来、一姓皆成仏(山川草木悉皆成仏)と五姓各別とは、そ
のどちらが仏陀(お釈迦さま)の真意にかなっているか、しばしば論争されて
きたといわれます。
以下、「多川俊映著、唯識入門、春秋社」から引用します。
『応和三年(963年)、一乗仏教の天台宗の良源と法相宗(注、唯識仏教)興
福寺の仲算とが「法華経」の第二章「方便品」の次の経句の解釈をめぐっ
て論争した。
「若有聞法者 無一不成仏」
良源の読み下し
もし法を聞く者あらば、一としては成仏せざること無し。」
仲算の読み下し
もし法を聞く者ありとも、無の一は成仏せず。』
著者の多川俊映氏は仲算の読み下しは「公平にみてちょっと具合が悪いの
ですが~」と仲算の分の悪さを指摘しつつ、次のように補足しています。
「もっとも、こうした一姓皆成仏と五姓各別という考え方の相違は、理を重
視する立場と現実を重視する立場の相違に由来することなのです」と仲算を弁
護しております。そして「この五姓各別の考え方というものは、本来、仏道に
おいて他者をはかる尺度でも冷たく部類分けしたりするものでもないことであ
ります。つまり、五姓各別説は、つねに、この自分はどうなのかという自己凝
視とのかかわりにおいてこそ、取り上げられるべきものなのです。」
私は多川俊映氏のこの著書で唯識を勉強させて頂きながら大変おこがましい
のですが、この弁護はいささか苦しげであり、無理があると云わざるを得ない
のです。
唯識説は仏教史上、お釈迦さまが説かれた輪廻転生する「我」の正体を見事
に説き明かすという仏教史上偉大な足跡を残しながらも、お釈迦さまの教理か
らはずれた面があることを、この論争からも学びとれます。
仲算の「~無の一~」とは五姓各別説の五番目「無姓有情」の三つ、断善、
大悲、無姓の内の一つ、無姓を指しているのは明らかですが、そもそもこの経
文を含む法華経は仏陀釈尊の徳をたたえるもので、一乗仏教(唯識仏教以外の
大乗仏教)の経文です。この読み下しに唯識仏教の教理による解釈の余地はな
いはずです。それと多川俊映氏はこの経文の解釈を「理の重視か、現実の重視
か」の視点で考えるべきと主張されますが、「一切衆生が成仏するか、衆生の中
に成仏出来ない部類があるか」は仏教の根本的原理に関することで、個々人の
仏教教理に対する解釈の問題ではないはずです。
私は唯識仏教の仏教教理に対する偉大な功績を認めつつも、五姓各別説によ
り唯識仏教は「実在」を容認する立場に変質していたと考えるのです。