唯識仏教以外の大乗仏教の各宗派に共通する根本教理は、龍樹の空の論理に
基づく「一切衆生悉有仏性」（すべての衆生は悉く仏となる能力がある、仏とな
る可能性を有する）、「「一切衆生悉皆成仏」（すべての生命あるものは一様に等
しく仏になれる）であり、こうした考え方を「一乗仏教」といいます。乗とは
乗物のたとえで、衆生を悟りに導く教えは一つという意味です。

　それに対して唯識仏教は「心のやすらぎ」に三種の別があると考えます。「心
のやすらぎ」とは仏の悟りの内容でそれは二つの側面、つまり涅槃と菩提をい
います。

　三種の心のやすらぎを説く教えが「菩薩乗」、「声聞乗」、「独賞乗」の三乗、
つまり三つの乗物で、このため悉皆成仏を主張する一乗仏教に対して、唯識仏
教は三乗仏教といわれます。

　　　　　　　　涅槃　→　心身の静かな境地
心のやすらぎ
　　　　　　　　菩提　→　真実の智慧のこと（空）

　この二つはそれぞれ我執と法執に対応します。
　我執は自己を確固不変なものとして自己に執着することで、我執は・・
の三毒に代表される煩悩へ導かれます。この煩悩という障害、煩悩障を修行
によって取り除いたところにあらわれるのが涅槃です。

法執とは自分で見たり聞いたり考えたりすることを確固不変の実体として執
着することで所知の障害、所知障といいます。自分と自分を取り囲む一切諸法
（もろもろの現象）は、諸々の要素がそれぞれの条件で仮に和合したものにす
ぎないのに（空）、それを不変の実体的存在と捉えて、自分の過去の経験の枠組
（阿頼那識）で、その内容を自分に都合よく見たり、聞いたり考えて正しいも
のとしている（未那識）。

　こうして法執から出てくる所知障を修行によって断ち切って得られるのが菩
提です。

　こうした考え方のもとで、唯識仏教は「五姓各別」という教義を打ち立てま
す。なお唯識仏教の「五姓各別」に対して他の大乗仏教の「一切衆生悉有仏性」
は「一姓皆成仏」と表現されます。
　五姓各別とは次の五つの姓をいいます。


声聞定姓
独覚定姓
菩薩定姓
不定種姓
無姓有情

　　声聞定姓と独覚定姓はいずれも煩悩の障害を乗り越える資質を本来的に持っ
ている人です。そして声聞定姓は仏や高徳の師、先輩や友人といった人々の教
えを受けて煩悩の障害を乗り越えられる人で、独覚定姓は独力で煩悩障を克服
出来る人です。

　　菩薩定姓は煩悩と所知という二つの障害を修行によって取り除いて、仏陀が
体得された心と同等の心のやすらぎをに至る資質を本来的に持っている人です。
　不定種姓は声聞定姓、独覚定姓、菩薩定姓のうち、二種以上の資質を兼ねそ
なえて、そのいずれの方向に進むかが決まっていない定姓です。
　無姓有情は煩悩の所知の二つの障害を断ち切る資質が本来的になく、永遠に
心のやすらぎ、つまり涅槃と菩提の世界に達することが出来ない部類です。
　ただし、無姓有情は厳密にはさらに次の三つに分類されます。

断善
無姓有情　　大悲
無姓

　　煩悩障と所知障を乗り越える資質は、心のやすらぎを志向するという汚れの
ない性質なので、唯識仏教ではその資質を「本有（ほんぬ）」の無漏種子といい
ます。声聞、独賞、菩薩、不定種の各姓は本有の無漏種子があります。そして、
無姓有情の内、断善と大悲にもこの無漏種子がありますが無姓は全くない、と
いう違いがあります。

　断善は無漏種子はあるが、それを成熟させる縁となる善を行うことの出来な
い人、あるいは善根を断った人ですが、縁を得て善を行う、あるいは善根を回
復して心のやすらぎを得られる可能性があるのです。

　大悲は大慈悲を起こしてこの世にとどまり、利他の行を続けて、決して成仏
しないと誓願を立てた菩薩ですが、誓願が成就して心のやすらぎを得る可能性
がある人です。つまり断善と大悲はいわば条件つきの無姓有情です。
　これに対して無姓はまったく無漏種子がなく未来永劫、心のやすらぎを得ら
れない人なのです。

この五姓各別説は、生きとして生けるものの中に、決して心のやすらぎに到達
できない部類の衆生が存在すると主張するもので、この事が他の大乗仏教各宗
派と根本的に異なるものです。

　多川俊映氏は著書唯識入門で無姓有情のこの三つの分類、断善、大悲、無姓
についてふれておりません。次の回で紹介する天台宗の良源と法相宗（唯識仏
教）の仲算との「法華経」の経句に関する論爭を紹介しておりますが、唯識の
五姓各別説の五番目である無姓有姓の三つの分類、断善、大悲、無姓の意味を
知らないと、仲算の主張の意味を理解出来ません。