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般若心経の空とはなにか

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(54)唯識、唯識仏教の限界 その② 大乗仏教各宗派の特徴と共通点


  龍樹が確立した「空の論理」が、各宗派の教理にどのように取り込まれてい
るのか私が知る所を述べてみます。

 浄土宗、浄土真宗では「南無阿弥陀仏」と唱名します。「南無」とはサンスク
リット語で「帰依する」、「敬礼する」あるいは「帰命する」を意味する「mamas」
の音写語です。だから意味として「阿弥陀仏に帰依します」となります。阿弥
陀とは無限の寿命をもつもの(無量寿)、無限の光明を持つもの(無量光)の意
味をもつサンスクリット語の訳語です。

 阿弥陀仏とは修行者(法蔵菩薩)であった久遠の昔、仏さま(世自在王仏)のもとで、
無上の悟りを得ようと発心して、衆生救済のため四十八の本願(四十八願)を立てて、
長い長い修行の末に本願を成就して、今から十劫(じっこう)の昔に悟を得た仏さまです。
阿弥陀仏はここより西方の十万億仏土を過ぎた極楽と呼ばれる世界(浄土)で、今も
衆生救済の説法されているから、阿弥陀仏に帰依しておすがりしなさい、との教えです。

 仏さまはその誓願の内容により阿弥陀如来、薬師如来、阿閦如来、大日如来
など名づけられますが、人が一人一人特有の性格や精神的傾向をもって独立し
た人格をもって存在しているように、仏さま一体一体が独立して存在している
わけではないのです。仏さまは対面する衆生の願望に応じたお姿を見せている
だけで、人がもつ全ての願望に答える「大きな一つの存在」です。

 般若心経に「~三世諸仏~」とあるように観音経(観世音菩薩普門品偈)の
六行目に「待多千億仏発大清浄願」とあるように、仏さまは無限大にあり、衆
生の願望に応じて、それにふさわしい一面のお姿を見せているだけなのだ、と
考えるべきです。

 少し横道にそれますが、靖国神社にまつられた魂を政治的な理由で「分霊せ
よ」という意見が時々出ます。神社側は「それは不可能です」と反論しますが、
これはこの仏さまの多様なお姿の本質に対する認識と同じ論理なのです。

 仏さまとか、亡くなった霊魂は対置する一人一人の人間の側の認識の問題で
あって、生きた人間の独立した人格と同じように考えることは間違ってます。

 話を戻すと、阿弥陀仏とはお釈迦さまと同じ修行によって悟りを得た仏さま
で、浄土宗は衆生救済の四十八願を説き、特に十八番目に衆生救済の誓願をも
つ阿弥陀仏におすがりしなさいと説く宗派ということで、その本質は「お釈迦
さまに帰依します」と変わらないと考えるべきでしょう。

 「南無妙法蓮華経」とは「妙法蓮華経」というお経の教えに帰依する、とい
う意味です。妙法とはお釈迦さまが悟られた深甚微妙で言葉では簡単に表現出
来ない尊い教えのことです。お釈迦さまの教えの功徳をすべて収められた「妙法蓮華経」に帰依しますを題目として口で唱えて心に信受すれば、お釈迦さま
がもつ一切の功徳を得られるとの教えです。

 ではこの妙法とは何かというと、お釈迦さまが悟られた「縁起の法」、つまり
龍樹がまとめた論理、「空」の論理以外にあり得ないわけです。

 禅宗の主な宗派は臨済宗と曹洞宗です。
禅宗はいずれも坐禅を修行法に取り入れた所に特徴があります。禅は精神の安
定と統一を意味するサンスクリット語の音写語です。
又、身体を最も安定した姿勢は結跏趺坐という座り方なので修行において常に
その座り方が用いられます。こうした精神状態を示す「禅」に身体の姿勢を示
す「坐」が結びつけられて坐禅という言葉が生まれた。このように考えると実
は坐禅はお釈迦さま以来仏教修行の中心に位置してきたものなのです。

 臨済宗の坐禅では公案(禅問答の課題)を通じて、自分の中にある仏に出会
うことを目指します。これに対して曹洞宗は「只管打坐」といって、ただひた
すら坐禅を続けて、心身が一切の束縛から自由になる(身心脱落)境地を目指
しますが、それはお釈迦さまの悟りの境地、「空」以外にあり得ないでしょう。

 禅宗は根本経典をもたないが、般若心経がそれに替わる経典として常に唱え
られています。禅宗は「無」を強調しますが、これは修行の目的を意味するも
のでなく、修行の中で「聞こえてくる仏の言葉や天界の情景」は修行の成果で
なく、単なる「幻」だから「無、無、無」と否定せよとの修行上の方便です。
そして特に曹洞宗(日本)は道元を高祖、瑩山を太祖として、釈尊(お釈迦さ
ま)を加えた一仏両祖を本尊としている。

 密教の修行では、手で印を結び、口では真言を唱え、心では本尊(大日如来)
を念じます。これはそれぞれ身(体)、口(言葉)、意(心)のはたらきに対応
するもので「三密」といいます。三密の実践によって心と身体は仏、つまり大
日如来と一体になることをめざすが、それを「即身成仏」といいます。
密教が顕教(これまで述べた各宗派)に比べて特徴的なのはその修行法だけ
でなく、護摩を焚くなどして呪術的な加持祈祷を行って衆生の現世の不安を取
り除いたり、自分自身の修行の完成をめざす所にあります。

 密教は顕教である他の大乗仏教各宗派と成立の経緯と内容に大きな違いがあ
りますが、般若心経を宗派の主要な経典としているのに共通性があります。そ
れは密教の修行上の究極目標である「即身成仏」とは、空の論理が示す一切の
法(現象)は、相互依存性の存在であり、実在性がないという教理を如実に悟
る、ということで、それはお釈迦さまの悟りと全く同じ世界なのです。

 私はこの(54)回で大乗仏教各宗派を紹介しつついずれも龍樹の空の論理を
根本的教理とする共通性について述べてきました。このことを述べてきた理由
は、その大乗仏教各宗派と唯識仏教とに、相容れない仏教教学上の根本的な相
違があるのを強調したいためです。唯識仏教には大乗仏教として衆生済度のための、どの様な修行法ないし祈りの作法があるのかという疑問だけでなく、大乗仏教おしての根本的な教理上(教義の体系)の問題点が2つあります。

 それが唯識仏教の大乗仏教としての限界であり、その唯識仏教の興隆が「般若心
経の誕生」をうながしたのではないかと思うからなのです。

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