古代インドのバラモン思想は、人間の心の中に過去から未来永劫にわたって
実在する不変の実体があると説き、それをアートマン、つまり「我」と呼んだ。

　この「我」こそ輪廻転生の実体で、人々は永遠に続く生死をより安楽にする
ために、積徳や善行が励行された。

　これに対して仏陀となったお釈迦さまは、そうした不変で不滅の「我」を明
確に否定された。

　「我」は縁に因って生起し、縁に因って滅失するという「縁起の法」こそこ
の世の理法であると説かれたのです。そして「我」は肉体が消失しても輪廻転
生の本体として存在を継続するがお釈迦さまのようにその縁起性を瞑想により
悟ることにより存在が消滅する道があるのです。

　しかしお釈迦さまが入滅されて６００年後、龍樹により縁起の法を言葉によ
って「空」の論理として再定義され、大乗仏教が興隆してきた時、輪廻転生す
る本体とは人の心の深層に存在するとして、その成り立ちの仕組みや性質を明
確に解明する集団が出現します。

それがこれ迄説明した唯識仏教集団なのです。
　人間存在の基盤としての深層の阿頼那識の存在を明らかにして、人の行いと
思考は何に依るのか、どの様な仕組みで深層の心としての阿頼那識が形成され、
それが表層心としての意識（第六識）と感覚（前五識）に影響を与えて動かす
のか、明らかにしたのです。

これ迄記述してきた心の構造をイメージとして図にすると次のようのものなの
でしょう。（43）回の図を再構成して表示します。




　　
人の心とはまず無始の昔から輪廻転生してきた阿頼那識に、現行が種子とし
て薫習される時、その阿頼那識がもつ性質によりその人自身特有の「印象・気
分」に変えられて薫習されるのがそれが最初に変現された心なので初能変の心
という。阿頼那識に薫習された種子が現行化する時、次の深層心である未那識
は利己的で自愛的に動くのだが、阿頼那識がそもそも持つ性質に基づいて利己
的で自愛的に変現されて、第二の能変の心となる。表層の心はこうした初能変
と第二能変の心の変現を受けて変現されるので第三の能変の心として人の行
為・行動や思考がはたらくことになる。

　人の心はこうした三つの層の変現を受けて、見たり聞いたり匂いをかいだり
味わったり感じたりしているのですが、その一つ一つはその人特有あるいは独
自の経験の積み重ね、つまりは阿頼那識がもつ性質や価値観によって「意味づ
けられ」ているのです。だから人は同じ風景を見ても同一人物と会話しても、
同じ音楽や音を聞いても、同じ匂いをかいでも、同じ料理を味わっても、厳密
にいうならば一人一人にとって「異なる意味」をもつのです。人は同じ対象で
あっても異なる体験をしている訳で、唯識でいう「影像」とはそのような意味
なのです。

　こうしたことを観点を変えて芸術家の創作活動を考えるとよく分か
ります。「作曲」といわれるが、例えばモーツアルトは聞こえてくる音を楽譜に
写していただけだといわれるが、実際に書き残された「書きなぐられたような」
楽譜を見ると実感します。それが阿頼那識の痕跡です。画家は風景を見ながら
自分の阿頼那識にある痕跡をキャンパスに写しただけです。作家は自分の阿頼
那識にある記憶の痕跡を自らがもつ特有の論理を文字にしているのです。

　そして作曲家はその作品（音）の通奏低音として風景と物語を、画家はその
作品の通奏低音として音楽と物語を、作家はその作品の通奏低音として音楽と
風景を同時に共鳴させながら完成させているのであって、音、風景、文字は独
立したものでなく、渾然一体のものであり、意識のはたらきとして「影像」と
しか表記できないものなのです。そして音楽家や画家や小説家の作品を鑑賞す
る個人は、それぞれの作品にその個人特有の通奏低音を響かせて、その個人特
有の「影像」を鑑賞しているのです。

　唯識はこうして、お釈迦さまが永久不変の「我」を否定して説かれた「無我」
説を崩すことなく、輪廻転生の主体の存在を最も巧みに解決したわけで、特に
阿頼那識と阿頼那識形成の論理と機能の解明は仏教史上、大変な大きな功績と
評価されるものでした。