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般若心経の空とはなにか

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(49)唯識、唯識仏教とは、その⑪心の構造、阿頼那識と未那識

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(49)唯識、唯識仏教とは、その⑪心の構造、阿頼那識と未那識

阿頼那識とはサンスクリット語の「アラヤ」を漢字で音写した言葉で、何かを「保有する」の意味から、蔵、蔵識と訳されている。

 私たちの日常生活の全ての行為・行動と心の中でひそかに思いめぐらすすべての思考・想像が現行であり、その現行の印象・気分を種子として薫習され保持される場所が蔵なのです。

 蔵には、能蔵、所蔵、執蔵の三つの意味があります。阿頼那識という深層心は私たちの経験のすべてである現行を種子として「能く」薫習してを保持するという意味をもっており、この事から能蔵といわれます。又、現行の全ての痕跡を種子と云う潜在勢力として蓄積し保持する心識なので「一切種子識」とも表現されます。そして能蔵という事を薫習される側にある阿頼那識からすれば、種子が保持されるところということで所蔵という意味になる訳です。執蔵については第七識の未那識との関連で生み出される言葉で、唯識ではもっとも深く重要な意義をもつものです。

 阿頼那識は無始の昔から薫習を受けながら相続されて現在に至り、さらに未来に向かって連綿と保持される心の領域です。相続された種子は縁が整えば現行し、現行の印象・気分は阿頼那識に薫習するし(種子生現行・現行薫種子)、阿頼那識に潜在する種子は時々刻々、前滅後生しながら相続される(種子生種子)。阿頼那識は睡眠や気絶などでの意識の途切れ(間断、けんだん)を結び、絶えず統一ある人間性を保ちつつ、人間の生存そのものを支える心的領域です。そして人間生存の基盤である阿頼那識は、本来、善でも悪でもない性質、「無記」であるとされる。なぜなら、人間生存の基盤が悪性であれば私たちは苦の世界のみを転生して永遠に悟りの世界への手がかりを得られないことになる。又、本質基盤が善であるならば、すべてが悟りの世界につながっていくので、人間生存の苦しみや矛盾はそもそも存在しないことになります。私たちは貧りつつもその一方で反省を繰り返し、仏道に精通しながらも怒りの心を起こしてしまうのは阿頼那識の無記の性質に依っているからなのです。

 すでに阿頼那識に潜在する善もしくは悪の種子に因って、現実の基本的なさまざまの善悪の現行を生起するが、それにもかかわらず阿頼那識は善にも悪にも傾かないのです。

 善因善果、悪因悪果、無記因無記果という、原因と結果の性質が同じことを等流といいますが、善もしくは悪の種子に因って生起したにもかかわらず、その行為の結果が無記であるという因果関係もあり、これを異熟といい、この場合の阿頼那識を異熟識という。性質的に異なって成熟するという意味で、阿頼那識は徹底して無記なのです。阿頼那識はその人なりの本質をとぎれることなく持続される心の領域ですが、不変のものでなく変わりながらも全体的に同じ性質は変わらずに連続するものなのです(一類相続)。しかし阿頼那識は意識と前五識に直接的にはたらく訳ではありません。深層心としてのもう一つの未那識が表層心である意義と前五識を動かすのです。

 未那識のはたらきは、阿頼那識を対象として、阿頼那識こそ自己の不変の実体(我)であると認識して、その認識に執着することにあります。

 このように阿頼那識という蔵識が、未那識によって実在する我(実我)と誤認され執着されることが、三つ目の蔵、執蔵に意味で、唯識では特にこの執蔵が重大な意義をもつものと重視されている。

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