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般若心経の空とはなにか

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(47)唯識、唯識仏教とは、その⑨心の構造、種子

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(47)唯識、唯識仏教とは、その⑨心の構造、種子

唯識が語る種子についてもう少し続けます。
仏教において因縁というと、私たちが日常生活において生み出す全ての現象の直接的な原因をいいます。それは人の誕生も、学業も結婚も仕事も趣味娯楽も、あるいは成功や失敗も全てその人がもつ因縁に依ります。その意味で因縁とは仏教の教えの根本原理ですが、唯識はその因縁を種子であると主張する訳です。阿頼那識に薫習(所蔵)された種子は現行を生み出します。その種子によって生起した現行は即座に阿頼那識の中に印象・気分として薫習するから、現行はその種子を生成する直接的原因となります。

 そこで因縁とは、現行因縁と種子因縁の二つがあることになります。こうして現行と種子という二つの因が縁となって一切の現象が生起していくことになります。この事を「現行薫種子、種子生現行」いいます。又、「現行薫種子、種子生現行」の生起は同時かつ一連のものなので、「三法展転因果同時」といいます。三法とは、➀現行を生ぜしめる種子、②その種子によって生ずる現行、③その現行が阿頼那識の中に薫習する種子、のことです。

 この三つのものが相互に因となり果となりながら順次に連続して行われ、しかもそれが時間的で同時である、という意味なのです。

 種子は植物のタネと同じですぐに現行するとは限らないし、場合によっては、全く現行しないこともあります。現行するには植物のタネと同様に必要条件が整わなければならないのですが、現行しないとしても種子は消滅する訳でもないのです。

 そして阿頼那識に潜在する種子は、潜在未顕の状態においてもそのはたらきは静止している訳でなく、時々刻々と生滅を繰り返しながらその性質を引き継ぎ、現行化するに必要な条件の発現を待っている、と考えられている。

 阿頼那識の中で種子が種子を生むという因果関係もあり、この種子が前滅後生を繰り返しながら自類に相続していくことを「種子生種子」という。この場合、先行する種子(因)が後続の種子(果)を生ずるという因果関係で時間的に前後するので「因果異時」とされる。これは前述の「現行薫種子、種子生現行」が同時(三法展開因果同時)と異なる所です。

 種子には先天的なものと後天的なものがあるとされる。それが本有(ほんぬ)種子と新薫種子です。私たちの日常生活における行為・行動と思考・言葉(現行)は、他者から評価されては自信を持ち、あるいは批判されては反省しながら、次の新たなステップを踏むという事を繰り返します。そんな中で私たちの性格や人としての品性が問われる訳ですが、その人の本質、本性は外にあらわれた現行だけでは判断できません。阿頼那識の奥深くに潜在する未顕の種子を含めないと、その人の真の人間性、全体像が判断出来ません。一人の人の真実の全体像を知るためには阿頼那識に潜在する不可知の種子をも想定しなければなりません。

 そこで先天的な性分でもって生まれた変えようのない種子を本有種子といい、これは無始の昔以来、阿頼那識の中に自らが備わっている諸法(一切の現象)生起の原因力としての種子で、本来固有の種子です。本来固有の種子は教育的効果が及ぶ余地はないとされています。そして種子の内なにが本有種子か、なにが新薫種子かくべつするのは出来ず、それを知るのはただ仏陀のみであるといわれます。

 新薫種子とは後天的なもので、現行によって新たに薫習された印象・気分です。人がこの世の誕生してから生きて活動している今現在の瞬間まで、家庭環境や社会的環境などの影響で自ら身につけ、又、身につけつつある種子です。

 唯識ではこの本来固有のものと新薫のものとが相互に関係し合うことが諸法(一切の現象)が生起して私たちの生活があると考えているのです。

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