まず、私たち一人一人が持つ深層の心である阿頼那識と未那識に入る前に、その心を形成する原動力となる現行、種子(しゅうじ)、薫習について考えてみます。
能変の心、阿頼那識、未那識とともに現行、種子、薫習という言葉は唯識の論理構成の基礎となる概念です。
私たちは遊びや仕事、人との交流などでさまざまの行為・行動をします。又、人の成功を祝福したり幸せを妬む、あるいは過去を懐かしんだり未来を想像して夢をふくらますなど、心の中で過去、現在、未来にかかわるさまざまの喜怒哀楽をめぐらします。そうした行為・行動と、心の中で思い巡らす全ての思考を唯識では現行といいます。現行とはそれが具体的な行為・行動であるか、単に心の中の思考の枠にとどまっているか区別しないのです。極端に云うならば憎む相手を殺してしまいたいと思う心は、実際に相手を殺してしまった行為と同じ心理作用を心の底にきざみ込むはたらきがあるということで、心の奥底で秘かに思い巡らす心のはたらきも、一つの確かな行為・行動と同じ現行として取り扱われるのです。
植物の種子(しゅし、タネ)は、たいてい楕円形の平べったい茶色のもので、どの様に成長するのか見た目には分かりません。しかし一粒一粒のタネは、そのタネ特有の遺伝子を持ち、遺伝子特有の能力が土壌、水、太陽の光という条件により開化して成長します。きゅうりのタネから茄子が育ったり、ユリの花のタネからバラが咲くことはありません。
人がどの様な容貌か性格か、どの様な能力や才能をもつのか、成功と失敗いずれの可能性をもつのか、あるいはそもそもどの様な両親のもとのどのような境遇の家庭(出自)に生まれるのか、私たちは知ることが出来ません。しかし人は前世までに繰り返して蓄積してきた条件をもっており、その条件に制約されて誕生し、人生のさまざまの局面において選択を繰り返します。
人の誕生と人生の選択の可能性や傾向を決定する、あるいは支配する可能性は丁度、植物のタネに似ているので、唯識では種子(しゅうじ。以下種子はこの意味で使います)といいます。種子はそのはたらきが植物のタネに似ているので種子と云うのですが、物質的なものでも実体あるものでもありません。
現行と種子の関係について唯識では次のように表現します。「現行は、その種子を阿頼那識に薫習する」。
現行という現実の具体的な行為・行動や思い・考えが種子というかたちで阿頼那識という深層心に薫習されていく、ということです。薫習とは香りが衣服に移り付着するように、行為・行動や思い・考えというものは、「印象・気分」として人の心の底に植えつけられて、長くとどまる作用をもつということです。
換言すれば、阿頼那識に薫習された行為・行動や思い・考えの「印象・気分」が阿頼那識の中に痕跡として残る訳ですが、それを種子と云うのです。
種子はその後の自己形成の潜在的な力となり、タネが目を出すときと同じ様に、条件が整えば具体的な結果としての現行をもたらすのです。その意味で種子は現行という(あるいは人生という)結果を生み出す原因としての力であり、無始の昔から連綿と蓄積されてきた現行の「印象・気分」である種子の集合体が阿頼那識なのです。