唯識において心とは、認識の対象である森羅万象を自己の心上にその人固有の性格によって影像として変現するはたらきをするものなので、単に心と云わないで「能変の心」といいますが、この心によって変現された認識対象はその性質によって三つに分類されます。性境、独影境、帯質境の三つで「三類境」といいます。なお境とは認識対象の事です。
性境とは本質(外界の現実の事物や現象)にもとづいて変現された影像で、正しい認識の対象です。
独影境とは本質とはかかわりなく、心がおのずからもっている作意の力によって心上に映し出された影像で、まったく根拠のない認識対象で、例えば幻覚の対象です。
帯質境とは本質に根拠をおきながら、なお、正しく認識できなかった場合の対象で、例えば錯覚や誤認の対象です。
唯識によれば、以上の三つに分類された認識対象は、全て自分の能変の心によって色づけされ、変現されたものです。だから現代の心理学的概念として現実の事物や現象に対する正しい認識であるとか、幻覚あるいは錯覚や誤認であるとかは問題になりません。それは全て本人の阿頼那識に蓄積された記憶(種子)とそれを利己的に変現した未那識(未那識については後述します)に依って機能した、前五識と意識のはたらき、つまり能変の心(影像)なのです。
私たちは同じ空間と現象の世界にいて多くの人々が、一人一人違った映像を見ているのだという論理に素直にうなづけないものを感じます。しかし良く考えてみると納得せざるを得ない現実につき当たります。
電子工学の専門家によると、人は常時、一秒間に百万ビット位の情報を感取し処理しているという。それは自宅で安静していても、街なかを散策していても、忙しく仕事に没頭していても、車を運転しあるいは電車で移動している最中でも変わらないようです。
例えば自宅で安静している場面を想定してみます。眼は部屋の中の状況や壁や応接セット、本棚、テレビ等の型のあるものと色彩を常に感受し見ています。耳はオーディオやテレビの音、家族の話し声、車が走行する音や街の騒音を常に感受している。鼻は部屋の匂いや花瓶に飾られた花の香り、コーヒーやワインの香りを感受している。舌は常に口内の唾液を調整し、又飲み物の味を感受している。身は外気の温度や湿度を無意識の中で全て感受しているのです。
何故こんな事を断言出来るかと云えば、人は見たもの、聴くもの、嗅ぐもの、味わうもの、身体に感じたもののいずれかに異常を感受すると、即座に反応し異常を避ける行動や思考を取るからです。地震、火災、異様な轟音や騒音、悪臭などの異常事態に即座に対応した行動と思考を取りますが、それは、前五識と意識は絶え間なく連続してはたらいているからなのです。
こうして前五識である眼耳鼻舌身は、周囲の情報をその人特有の感受性によって変現して(能変の心)、その人特有の意識により変現(能変の心)し、その変現された心の影像を現実の事物や現象であると認識しているのです。
たとえばある土地の山や川の風景は誰の眼にも写真や映像のように見ているわけでありません。男女の別、年代、その土地の出身者か否か、その風景の土地で遊ぶ、仕事した、何か思い出があるかなどで、一人一人違ったものを見ている。つまり人の意識がその風景そのものでなく、「風景にある自分にとっての意味」を見ているのです。耳で聴く音楽も同じです。さまざまの分野の音楽、演奏する楽器や演奏者の音の「意味」を人の意識が聴いて感動しあるいは拒絶するのです。匂いや香りも同じです。鼻でその匂いや香りの「意味」を意識が見ているのです。
つまり人は自分の心によって変えられ、そして自分の心の上に映し出された「そのものに似た影像」を認識の対象としているのです。一人一人の現実はその人特有のその人だけの現実であり、厳密に表現するならばこの世の出来事、事物、現象は世界中の人の数(約73億人)だけ存在するということになります。親子、夫婦、兄弟、友達、同僚等、親しい関係の人、無関係の他人も全て「ある現象や事物」をテレビ画像を見るように同じ心で認識していることは有り得ない、ということでもあります。同時に同じ場所で同じ現象や事物を複数の人(2人でも数十人でも)が体験して、同じ感想を述べたとしても、全く同じ現象であり事物であるのを、実は誰も証明出来ないし、実際、同一である訳でないのです。
何故なら一人一人の前五識と意識という表層の心の根底には無始の昔から連綿と蓄積し変現してきた深層の記憶、つまり阿頼那識があり、変現する阿頼那識を不変の実体と見て表層の心を支配する未那識があるからです。
この深層の心である阿頼那識と未那識は、現代の地球の人口約73億人、一人一人異なる訳で、表層の心で同時に複数の現実を共有することは有り得ない、というのが唯識の教えなのです。
では深層の心、阿頼那識、未那識とはどんな心でどのようなプロセスで形成されたものなのでしょうか?