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般若心経の空とはなにか

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(42)唯識、唯識仏教とは、その④、表層の心と深層の心

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(42)唯識、唯識仏教とは、その④、表層の心と深層の心

お釈迦さま誕生以前にインドで主流をなしていたのが、バラモン思想でした。
バラモンによれば人は無始の昔から未来永劫に渡り輪廻転生を繰り返す存在であり、転生する不滅の実体をアートマン「我」と呼びました。「我」は当時の人々にとって避けがたい大きな悩みだったのですが、その事についてホームページ、11Pにある「(1)古代インド人の悩み」をここに再掲します。

「(1)古代インド人の悩み
 お釈迦さまは当時のインド人のどんな悩みに答えようとしたのか?それは未来永劫、滅する事のない輪廻転生への恐れ、苦悩でした。

 お釈迦さまの時代に主流をなしていたのはバラモン思想でした。バラモン思想では実在して永久に流転する我「アートマン」が説かれていた。アートマンは悪行により闇の世界に落ち、善行により天界に生まれるとされた。天界では美しい花園、華やかな音楽と舞、贅をつくした食物と酒を楽しみ幸せな時を過ごします。しかし善行の果報を享受し尽くすと再びこの世に生まれ戻るのです。

 こうして転生する生存は楽しみと喜びもあるが、苦しみも多い。王侯貴族に生まれるか、貧しい農夫に生まれるかにより、その貧窮や苦しみに大きな違いが出てきます。そこで苦しみや悩みの少ない階級に転生するため善行に励まなければならない事になる。しかし、どんなに善徳を積んでも時が訪れ、善悪、徳不徳が計られて最後の審判により、苦しみの輪廻を終えられる事がない。人々を深い苦しみと悩みから救い出す神が存在するわけでもないのです。

 この時代のインド人にとって輪廻は無限の不安の種であり、現実の苦悩であり、恐怖でもあったのです。」

 お釈迦さまは当時の人々に「我」そのものの存在を認めつつ、それは「縁に因って生じ、縁に因って滅する存在で、未来永劫にわたり実在するものでない」として、自らの悟りの内容「縁起の法」を説かれた。現代的表現をすれば「全ての存在と現象は丁度、化学反応と同じで、複数の存在が化合や分離によりその姿形や現象を生起するだけで、未来永劫変わらず存在する実体は無い」ということです。化合の条件が変わらなければ実在する如く永久に存在が続くが化合の条件に変化があれば他のものに変化し、無に帰した如くに見えます。これは、当時の人々にとってまさに革命的な教えであったのですが、考えてみると現代の我々を取りまく人間や人間社会の諸々の事件や課題だけでなく、物理学、化学、天体物理学など、究極の真理を追究する全ての科学分野に当てはまる真理でもあるのでは、と私は思うのです。

 お釈迦さまの悟り「縁起の法」は縁(よ)って一切諸法は生成滅失するという意味です。これが説一切有部によって実在説に改変された時、「空」を説く修行者が現れ、さらに龍樹は「空」の意味とそのオリジナルはお釈迦さまにあると宣明しつつ、「空」に「縁(よ)る」の意味と共に「相互依存性」の概念を加えて、「空」の意味をより一層厳密に言葉で解明してお釈迦さまの真意をより鮮明にした。この龍樹の貢献により仏教は大乗仏教として発展するのですが、お釈迦さま入滅されて約700年経つと、「心の構造」について精妙かつ巧みに考察を加えて、それ迄とは違った仏教体系を構築する集団が現れます。

 心の構造というだけでなく、それ迄自明の事としてなに人も説く事のなかった輪廻転生する仮合の存在としての「我」の正体を明確に解き明かすものでした。

 それが唯識、あるいは唯識仏教なのです。
 唯識の最大の特徴は、心を「表層の心」と「深層の心」に分けた事で、特に「深層の心」の発見と解明は仏教史上画期的な出来事でした。

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