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般若心経の空とはなにか

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(41)唯識、唯識仏教とは、その③、心の構造の探求

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(41)唯識、唯識仏教とは、その③、心の構造の探求

ブログ(38)回で、唯識仏教の本質をずばり簡潔に表現したと考えられるドイツの詩人、ヘルマン・ヘッセの詩「内面への道」を紹介しました。

 唯識の考え方には一見、私たちの実感、感覚を超越した不思議なものがありますがよく考えてみると深く納得させられるものがあります。分厚い解説本ばかりの中で、比較的平易に書かれた「唯識入門、多川俊映著、春秋社」に出会いました。平易と云っても唯識の論理そのものが非常に難しいので、私がブログで紹介するなど大変おこがましいのですが、この本をもとに私が理解した所をまとめてみます。

 以下、唯識に関する内容も表現もこの本に基づくものですが、著者の意図と異なる点があれば、全て私の責任ですので宜しくお願い致します。

 唯識とは「唯識所変」の略語で「一切の存在と現象はただ(唯)、識(心)によって変じだされたもの」の意味です。私たちは常識的に、外界の現象や事物を直接の認識対象として心のはたらきで把握し、その上でその対象の意味を他の誰にも共通する客観的なものとして理解していると思っています。しかし唯識によればそうでなく、私たちは自分の心によって変えられて自分の心の上に映し出されたものに似た「影像(ようぞう)」を認識の対象としている、というのです。

 つまり「私たちは自分の心のはたらきによって知られた限りの世界に住んでいるだけで、自分の心だけが存在と現象をつくり、その内容を決定しているのだ」という事です。

 唯識では、心には前生というだけでなく、無始の昔からの全ての体験や事物の記憶があり、その記憶によってその時々の自分の心によって変えられて、自分の心の上に映し出された影像(ようぞう)を、外界の現象や事物として認識しているにすぎないと考えている。そして唯識はこの考え方はお釈迦さまの教えに即して探求して導き出したものだとも主張するのです。
 唯識の誕生にはインドの瑜伽行を修行する「瑜伽行派」の修行者が大きくかかわっている。瑜伽行とは精神を集中統一する瞑想の修行で、この深い瞑想を仏道修行の中心と考える集団が瑜伽行派と云われました。

 瑜伽行派の中で特に修業が進んだ人は瞑想において「お釈迦さまの説法を聞いた」とか「仏(ほとけ)を見る」という体験をすることになりました。

 こうした瞑想を修行の中心と考える人々は、かって実在説を説く説一切有部の主張に対してやはり「仏のお姿を見る、仏の声を聞く」等の体験から実在説を否定する「空」を主張して、膨大な数の「般若経」を書き残した事をブログ(26)回に書きました。又、「空」を言葉をもって論理的に解明して大乗仏教の興隆に偉大な貢献をされた龍樹についてもブログ(28)から(31)回にわたり紹介しました。

 唯識を説く修行者は、いまや全仏教における存在の理法となった「空」をふまえつつ、私たちの心そのものの構造をさらに徹底して深く解明していったのです。

 彼等は何故、唯識の論理にたどりついたのか?
瑜伽行派のすぐれた人々は深い瞑想の中で「仏(ほとけ)」を見るという体験を繰り返します。
しかしその「仏」は瞑想の中でのみ見られるもので、現実世界の中でそれに対応する具体的実体としての「仏」は存在しな事が認識されていきます。この体験から「仏」という存在は現実世界の存在でなく、心が変現したものであるのに気付くことになります。

 こうした修行体験から、私たちが日常生活で体験する森羅万象も実は、我が内なる心(識)のはたらきによって「変現されたもの」を、外界に存在する如くに見ているにすぎないと考えられるようになったのです。

 こうした経過を経て唯識は心というものを「表層の心」だけでなく、それまでの仏教哲学が想定していなかった「深層の心」の存在を明らかにして、その二つの心の構造とその関係を明らかにしつつ、仏道修行の新しいあり方を確立していったのです。

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