2月から4月までは仕事を優先していたから5月頃から(40)回以降を再開しようとしてましたが、考えがまとまらず遅くなりました。私が主張したい結論に到達するまで、あと14~15回続きそうです。
心は人の思考と行動を司り、人と社会、天然自然とのかかわりを決定づけていく人間存在の中枢です。だからお釈迦さまの時代から、仏道修行とは心あるいは心のはたらきのあり方やその制御の仕方に関する行為や行動が説話の主たる内容をなしてきました。そして心と心のはたらきそれ自体について深く論議される事はなかったようです。
そして心はそれ自体だけで存在するものでなく肉体あっての存在ですが、お釈迦さまの時代はそれは自明の事でした。心は肉体に宿るもので、肉体は心を宿すものであり人智を超えた魂の棲み家でもあります。
お釈迦さまが入滅されて百年、二百年経過してくるとアビダルマという仏教哲学が語られるようになり、人とは肉体と心によって構成される五つの要素、「五蘊」であると定義されるようになります。
蘊とは集まりとか全体を構成する部分の意味です。人とは5つの構成要素、色蘊、受蘊、想蘊、行蘊、識蘊つまり「色受想行識」であるという事です。
色とは感覚器官である眼耳鼻舌身意を備えた肉体です。受想行識は心のはたらきを4つの段階に分けたもので、要するに心です。(ブログ(16)~(18)回で説明しました。)換言すると五蘊とは「肉体と心」、あるいは「肉体と心のはたらき」という意味です。したがってこの頃の仏教哲学の論理はお釈迦さまの説話と本質的な違いはありませんでした。
しかし仏教哲学の言葉による研究が進むにつれて、肉体と心の分析が精密になっていきます。インドに仏教誕生前から広く普及していたバラモン思想には、感覚器官の眼耳鼻舌身意を羅列して、認識の成り立ちを考察する思考法がありました。
仏教(のちに小乗仏教と云われた部派仏教)はそのバラモンの思考法を取り入れて、仏教的に整理した十二処、十八界の教義をうち立てます(ブログ(18)回に掲載)。そしてお釈迦さま入滅後400年になると、説一切有部(すべては有ると説く集団)は五蘊、十二処、十八界の教義をさらに精密かつ詳細に分析して「五位七十五法」、「三世実有・法体恒有」という実在説を説くまでにお釈迦さまの教えを変質させました(ブログ(19)~(23)回に掲載)。
この説一切有部の実在説に反論するため、多くの瞑想を行ずるすぐれた神秘的修行者が数多くの「般若経」を書き残します。そしてお釈迦さま入滅されて600年後に出現した龍樹は著書「中論」において、「般若経」で説かれた「空」を明解な言葉をもって論理的にまとめて、説一切有部の実在説を論破した事で、大乗仏教誕生の契機になっていった(ブログ(28)~(31)回に掲載)。
人の心に関する仏教上の論争はそれで終わったかに見えたのですが、大乗仏教が興隆を極めたお釈迦さま入滅されて700年後の頃になると、心と心のはたらきについてさらに深く鋭く分析する修行者が現れますがその修行者が唯識を主張する瑜伽行者なのです。