魂とは、長い転生の中で蓄積された行いと思考によって構成された条件(構
成体)で、それは徳または不徳の大きさによって方向づけられた力(業の力)
を内在したものであろうと私は考えております。簡単に比喩的に言えば草木の
種子のようなものです。霊とは、魂を本体として関係のある相手との相互作用、
つまりは何らかの思いによって現れた、姿、形、力などの現象であろう。
なぜか学者や僧侶を含む仏教関係者には霊や霊性を否定する人が多い。霊を
否定することは魂の否定でもあります。
一般的に言って霊とか霊性を否定して宗教は成り立つのでしょうか?。霊性
なき宗教は倫理・道徳とどんな違いがあるのでしょうか?。
そもそも仏教は仏教成立以前からインドで広く信じられていた輪廻転生をい
かに克服するかという悩みの中から誕生したものです。王侯貴族に生まれても、
どんな富豪に生まれても、生老病死の苦しみから免れないと信じられていたか
らあであり、転生を繰り返す魂、魂の存在を知らしめる霊なき仏教などあり得
ないと私は思います。
霊を否定する根拠の1つとして、お釈迦さまは霊を語らなかったとするもの
があります。霊についてお釈迦さまが語る文献が非常に少ないことは確かです
が、それは、「霊とか霊的世界とは、こんな様相をしている」と説話してしまう
と、無用な先入観を与えて弟子たちの修行の妨げになるからです。30年ほど前、
俳優の丹波哲朗さんが霊界について映画製作をしたがそれは丹波哲郎さん1人
が信ずる、あるいは感ずる霊、霊界であって、他の人には関係ない世界です。
霊や霊の世界の様相は1人1人の転生の結果としての境涯によって異なるもの
で、60億人の人には60億の霊と霊の世界があるとみるべきであると私は信
じております。
不徳の人に徳のある人の霊を解説しても意味ないし、徳のある人に不徳の人
の霊を語ることは、徳ある人のあるべき転生の障害になるだけでないでしょう
うか。
霊を否定するもう1つの根拠として、お釈迦さまは霊を否定したとするもの
があります。お釈迦さまが否定されたのは未来永劫変わらず実在する実体とし
ての魂(アートマン→我)であって、その人の転生の中での現象としての霊の
存在を否定したものではないのです。
お釈迦さまは、一体となっているこの世とあの世の中で、無限の苦しみと喜
びを繰り返して変転、輪廻してきた自分の魂の姿を、深い瞑想の中でありあり
とみられたのです。そして、さまざまな境涯にある全ての人が縁起の法に出会
い、その深奥にふれることにより、いずれさとりの境地にたどり着き、輪廻の
輪から解脱するに至る道を私に、あなたに示されているのです。