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般若心経の空とはなにか

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(30)龍樹の論理、その③、分別と戯論、二不の智慧(言葉に対する不信)

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(30)龍樹の論理、その③、分別と戯論、二不の智慧(言葉に対する不信)

以下(29)回と同じ梶山雄一氏の著書に依ります。

  龍樹の著書「中論」(第8章、五偈)に「業と煩悩は分別から生ずる。分別は
戯論(けろん)から生じ、戯論は空性において滅す」とある。
『ここで業とは行為(心的、身体的、言葉的な行い)の事です。分別とは2つ
に分けることで、判断とか推理、思惟を意味します。戯論とは言葉や概念の多
様性をいう。

 この中論の偈の意味は次のとおりです。
判断が成り立つためには言葉の多様性が必要となる。言葉の多様な意味や概
念に基づいて私達は判断や推理を行う。判断や推理には必ず価値判断が伴う。
その価値判断に私達は愛着し、執着するから煩悩を生じて行為を行う。そして
生死流転する。だからそれを逆に断ち切っていけば、私達は解脱することにな
る。

 ここに分別や概念的思惟が迷いの根源だという思想があり、分別や思惟を表
す言葉に対する不信がある。言葉は決して事物の真相に反応するものでなく、
事物の真相から言葉が引き出されたものでもない。

 言葉と真実や事実とは全く無関係であるが、私達は言葉で考える。言葉があ
れば、それに対応するものがあると考える。実体というものは実は言葉の問題
なのだと、龍樹は繰り返して説かれているのである。』
 お釈迦さまも成道直後に言葉による布教を断念し、またのちに形而上学的な
議論に対して沈黙を守ったのも、悟った境涯は私達の認識と言葉と行為と超越
からでした。

 教学や哲学は言葉や概念に頼らなければ形成されないし発展もしない。しか
し衆生の救いは言葉にはない。お釈迦さまはそれを云おうとして口をつぐみ、
沈黙したが、それでも云わないでおられないとして初転法論に向かわれたので
した。

 「空」とは、こうした分別や戯論を止滅した世界でもあったのです。
こうして説一切有部が構築した五位七十五法、三世実有・法体恒有という範
疇によって区別される本体も実在するものでなく、言葉の意味の実体化である
ことが明らかにされた。

 『最高の真実は、ものの本体は空(実体がない)なるものであり、いかなる
印によっても特徴づけられないものであり、言葉と離れれば本体の空なる世界
が見えてくるのです。そして、すべてのものが空であればいかなるものにも区
別がないから不二である。

聖なるものと俗なるものは全く違うもの
煩悩は解脱や悟りと全く違うもの
生死と涅槃は全く違うもの
善と悪とは全く違うもの

 このような言葉による区別も真実を示すものでなく、単に言葉によって定義づ
けられた実体にすぎない。唯一の真実は言葉や表現を超えた一元の世界で不二で
あり、これを不二の智慧という。』

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