龍樹について語る前に、その業績に関する評価を紹介します。
龍樹はお釈迦さまについでインドを代表する偉大な仏教者であり、インド
大乗仏教最大の師と称される人です。
龍樹の空の理法は大乗仏教の基礎をなすもので、龍樹は日本仏教のすべて
の宗派の祖を意味する「八宗の祖」と称され、いずれの宗派にも祖師として
尊敬されております。
近年、世界的に比較思想研究が進むにつれてその思考と論理が古代から近
代に至る世界的大思想家と比較検証されており、単に仏教の論師としての枠
を超えて、世界の偉大な哲学者の一人として評価されるようになっておりま
す。
龍樹は紀元後150~250年頃の人で、南インドの裕福なバラモンに生まれ
た。原名は「ナーガールジュナ」で、樹の下で誕生し、龍(ナーガ)に導か
れて悟りを完成したので「龍樹」と呼ばれるようになった。
インドには龍樹を伝える文献は皆無であり、鳩摩羅什訳とされる「龍樹菩
薩伝」が唯一の伝記とされる、しかし、この伝記も全体として伝説とフィク
ションに満ちており、実像を伝えるものでないと云われる。
この龍樹伝には次のような物語が記されている。
青年時代、隠身の術をもって王宮に忍び込み、美女達を犯し、危うく一命を落しかけたことが出家の動機になった物語。
一つの仏搭での出家修行に始まり、ヒマラヤで老比尼から大乗の教えを受け、さらに大龍に連れられて龍宮に入り、無数の大乗経典の存在を知った思想遍歴の物語。
南方の王国を邪道から王道へ導いた物語
外道(仏教以外の哲学者、修行者)との術くらべ物語
自ら空室で蝉の脱殻のよに命を終えた物語
この物語の要旨を見るだけで、龍樹の人となりを知ることができるが、ここで一つ最も有名なイ)の王宮に進入した物語を少し詳しく紹介します。
王宮で起こした事件(「龍樹、空の論理と菩薩の道」、瓜生津隆真、大法輪閣より引用)
龍樹には同じバラモンで容姿にすぐれた三人の友人がいた。ある日、隠身の術者の家を訪ねて身を隠す青薬を手に入れた。
四人はその薬を調合して身を隠し、自由に遊び回り、相謀って王の後宮に入り、宮中の美女をみな犯してしまった。百日余りして懐妊する者が多く、美女達は王のもとに行き、告白して処罰の許しを乞うた。
王は訴えを聞いて不快になり「どうしてこんな奇怪なことがあるのか」と臣下たちに相談した。一人の大臣は「これは鬼魅か、誰かの方術でしょう。鬼魅なら呪によって滅ぼすことができるが、方術なら足跡が残ります」といった。
王はその計を用いて策を講じて備えていたところ、ある日四人の足跡が門から王宮の中へ続いているのを守衛が見つけて、急いで王に奏聞した。王は勇士数百人を率いて刀を空中に揮わせ、三人の首を斬った。王の周り七尺は刀が及ぶことが禁じられていたので、龍樹は身を縮め、息をひそめて王のそばにいた。
龍樹はここで初めて愛欲は苦のものであり、背徳は身を危うくし、梵行(清らかな正道)を汚し辱めるものであることを悟り、自らに誓っていった。「われもし脱することを得て、この厄難を免れるなら、沙門(行者)を訪ねて出家の法を受けよう」と。
逃れることのできた龍樹は山に入り、一仏搭に至って欲愛を捨て出家した。90日間、世に伝わるすべて経論を読み、ことごとく理解した。さらに別の経典を求めたが得られず、ついにヒマラヤに向かい、一人の老比尼に会って、大乗の教えを授かった。」
ここで一言付け加えたいことがあります。最終行の「大乗の教え」についてです。根拠となる資料に基づかない全くの私見ですが、ここで大乗の教えとは「般若経」だけだと思います。今日膨大な数の大乗経典がありますが般若経以外は全て龍樹の最初の経典「中論」以後に書かれたものだからです。