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般若心経の空とはなにか

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(19)部派仏教の説一切有部が実在説に転換した論拠

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(19)部派仏教の説一切有部が実在説に転換した論拠

ここで三科が精密化され再構築されるきっかけとなった論理について説明し
てみます。

 説一切有部は、お釈迦さまは煩悩の世界と煩悩を絶滅した世界を説かれたの
だから、その2つの世界の実在を認めたのだという独自の解釈を手がかりに、
バラモン思想とは異なった論理で新たな存在論、つまり実在論を完成した。

 その論理は次のようなものでした(以下、梶山雄一著「空の思想、仏教にお
ける言葉と沈黙」による)
 説一切有部はまず「有為と無為」、「有漏と無漏」について次のように主張し
た。有為とは原因によって作られたもの、原因により制約された存在のことで、
具体的には五蘊を意味します。無為とは原因を越えた何ものにも制約されない
存在で、具体的には涅槃を意味します。漏とは存在からもれ出るもの、「汚れ」
のことです。有為は私たちが執着する世界で、煩悩によって汚されているから
有漏という。無為は煩悩が断たれ、執着を越えられた世界だから汚れないもの、
無漏という。

 そこで説一切有部は、お釈迦さまは煩悩を絶滅して涅槃に至る道を説いたの
だから、「有為=有漏」のほかに、「無為=無漏」の世界を認めたのだ、と考え
たのです。

 そこで、五蘊は原因により作られたものだから、無常であり苦であり、煩悩
で汚されたものだから次の等式が成立する。
五蘊=有為=有漏=無常=苦
 涅槃は、原因により作られたものでなく、恒常で苦と煩悩を越えていて、無為、
無漏の存在だから、次の等式が成立する。
涅槃=無為=無漏=恒常=苦の解脱
 このような論理で、説一切有部はアビダルマ(論蔵)において、無常であり
苦である有為の世界のほかに、涅槃という恒常で苦を解脱した世界も認識の対
象につけ加えていったのです。

 こうして存在について無常のものと恒常のものを認めることになると「すべ
ては無常である」といえなくなり「諸行無常」、「諸法無我」という用語が成立
してきました。

「諸行無常」の行とは原因によって作られたも(有為)で具体的には五蘊のこ
とです。「五蘊は無常である」ということです。
「諸法無我」の法は存在のことで、この場合の存在とは有為(原因により作ら
れたもの)、無為(原因に制約されないもの→涅槃)のすべてに妥当するという
ことです。

 説一切有部が実在論の中で「無我」を説くのは、「五位七十五法」(次回(20)
で説明します)の実在する75種の要素は森羅万象を構成する要素にすぎず、存
在そのものでないから、実在論と無我は矛盾しないとするからです。
 こうして部派仏教の中で無常の世界のほかに恒常の世界が意識され始め、無
常と恒常の二種類の世界に共通する本質、存在そのものへの目が開かれていき
ます。

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