般若心経を良く理解するためには、まずその中に出てくる言葉の意味を知る必要があります。この(12)回から何回かに分けて言葉の意味について私の知るところを掲載します。
用語についてまず説明しなければならないのは般若心経の「般若」でしょう。
般若についてHPの冊子、P5に掲載してますが、ここで再掲します。
なおここで冒頭に掲げた「智」とは般若心経の中段にある「~無苦集滅道、無智亦無得~」、つまり私の起承転結に区分した、転の一節の出だし「無智亦無得」の「智」のことです。
般若心経の解説書の中にはこの智を「智慧」の智と解釈して、お釈迦さまはご自分の悟りの内容である智慧まで「無」として否定されているのだとするのがあります。これは明らかにおかしい。そもそも悟りの内容としての智慧はお経の表題にある「般若」です。だからここで「般若」と「智」の違いを明らかにする必要があります。
サンスクリット語にジナナ(jnana)と云う言葉があります。ジナナの
訳語は「智」で五蘊を分析して差別し相対化して知る心の作用で、世俗的だが非常に高度のはたらきで、叡智を意味します。ジナナは古代から、宗教、哲学、社会思想においてすぐれた成果を生み出してきた思惟の形です。近代から現代に至る科学技術上の発展をもたらした最高の思惟の形でもあります。この思惟の形は今日、私達が日常繰り広げる、政治的活動、経済的活動、文化的活動やなんらかの組織活動においても、その円滑、円満な遂行に欠かせない思惟の形です。
ところがジナナをさらに強調するプラ(pra)と云う接頭辞を付したプラジニア(prajna)と云う言葉があります。プラジニアの訳語は「慧」だが、慧は智を含む意味をもつので「智慧」と訳されたと考えられます。プラジニアとは思惟ではなく、瞑想によって瞬時にして究極の真理である涅槃を直感的、直証的、総合的に得る智慧を意味します。
このプラジニアをサンスクリット語の俗語形であるパーリ語でパンニャ(panna)と云います。このパンニャの漢字の音写語が般若なのです。
私は般若はどの様な作法の瞑想によって得られるものか知る事は出来ません。しかし時々、科学上の偉大な発見発明した人の逸話の中にその片鱗を知る事が出来ます。何年も何十年も1つの物理的現象の法則性や原理を求めてきた研究者が、「夢の中で解答を得た」とか「思考に疲れた体を湯舟にひたしていた時に突然ひらめいた」と云った体験談です。膨大な思惟と研究活動の成果として瞬時にそれを要約して1つの単純な法則、原理として解明されるのは、まさにプラジニア的智慧です。
私達はプラジニアもジナナも「智慧」とまとめて表現しています。
しかし、プラジニアはお釈迦さまが悟りを得た智慧です。ジナナとはお釈迦さまの悟りや教えを分析的、論理的に解明して評価し体系化する智慧なのです。
同じ智慧と云っても、思惟の方法においても、内容においても、深さ、素早さ、細やかさ、大きさ、高さ、そして実証性においても全く異なるものです。仏教書において智慧と云う場合、プラジニア、ジナナが区別されていないきらいがあります。般若心経の理解には、この2つの智慧を明確に区別する必要があります。
この様に「智」とはジナナ、それを強調し人間の能力の極限まで深めた智慧が「般若」つまりプラジニアなのです。