自分はどんな姿をしているのか、勿論、姿とは外見のみてくれでなく、どんな人間として他人に見られているかというのを知る事は難しい。それは「般若心経の空とはなにか」に少し詳しく書いた事で、人の数だけの自分があるというしかない。私は時々は「武田さんはやさしい」と云われる事がある。その時の私の心は「あなたから見ればそうだろうな」と思うだけです。
自分でも可笑しくなるのですが「今、私はなんかおっかない、つっけんどんなオジサンと思われてるな」と思う事があります。それはスターバックスなどで飲み物を注文する時です。私共の年代(60才代)の人間にとって喫茶店は「コーヒー」というとマグカップに温かいコーヒーが出てくる場所です。昨今、コーヒーを飲む店はほとんどチェーン店になってしまいました。チェーン店でコーヒー1杯頼むのに次の会話になります。
私 カフェ・ラテお願いします。
店員 ホットですか、アイスですか?
私 ホット。
店員 サイズは?
私 Rです(店によってはSサイズです)。
店員 店内ですか、お持ち帰りですか?
私 店内。
店員 マグカップでよろしいですか?
私 マグカップ。
店員 ○○円です。お飲みものは、そちらの赤いランプの方で。
飲み物1杯にありつくのに毎回毎回、同じ会話が繰り返されるのが面倒で私は店員が注文を聞く前に次の様に云ってしまいます。
私 カフェ・ラテ、ホット、Rサイズ、店内。
店員 はい、○○円です。
中には私の注文についていけず、サイズなど聞き返してくる事があり、そんな時はそっけなくRとか、一番ちっちゃいのとか返事します。
そんな時、「おっかない、つっけんどんなオジサン」と思われているだろうなと思う。
私の事を頭脳明晰だと云う人、あるいは頭が悪いという人の理由を良く理解出来ます。
情が深い、あるいは薄情だと云われると聞けば、それぞれの人の気持ちが良く分かります。正直だ、あるいはずるい、責任感がある、あるいは無責任だ、とさまざまな評価のされ方をされても私はその全てを受け入れます。その1つ1つに自分を省みて思い当たるふしがあるし、それらは全て私と対する相手の鏡にうつったまぎれもない私の自画像だからです。こうした自画像は「他の人という鏡」にうつった姿だから私は消す事が出来ないものです。そんな事を私は自分の引出しに全て入れて整理します。
自画像という事で、言葉そのものの意味で自分の事を色々書いてしまいましたが、実は私が書きたかったのは、「国の自画像」でした。最近読んだ「ドナウの叫び。ワグナー・ナンドール物語」(下村徹 著、幻冬舎)で、つくづく私達は「日本国の自画像」というものを知らない、もっと勉強しなきゃと考えさせられたからです。
次回、その本の事を少し紹介します。