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般若心経の空とはなにか

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私の般若心経の解釈について その7

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私の般若心経の解釈について その7

(4)転 一節 無知亦無得~

 さて、「その7」でやっと起承転結の転まできました。云い忘れましたが起承転結とは通常、文章の構成や物事の順序の事ですが、元々は漢詩の句の並べ方です。起区でうたい起こし、承句でこれを受け、転句で趣を転じて、結句で結ぶという形式です。
 般若心経の「(2) 起」では修行者(お釈迦さま)は般若波羅蜜多(智慧を完成する)の行(瞑想)により一切は空と悟り全ての苦厄から解放されて救われた、と云う主題が提示されました。
 「(3) 承」では悟りの本質である空の意味と性質を説き、空の見地から説一切有部によって実在の論理に組み立てられた部派仏教(小乗仏教)の主要な教義を逐一否定されました。
 この「(4) 転」では趣を変えて、神秘的修行者は説一切有部が実在の論理を構築する基礎となった思考、つまり「智」の否定と「智慧」の優位性を強力に打ち出します。

 サンスクリット語にジナナ(jnana)と云う言葉があり、このジナナの意味を強調する接頭辞プラ(pra)をつけたのがプラジニア(prajna)です。ジナナの訳語が「智」で、プラジニアの訳語が「慧」ですが、慧は智を含む意味をもつので「智慧」と訳されました。このプラジニアの俗語形がパンニャ(panna)で、般若とはこのパンニャの音写語とされています。

 智とは存在の要素(五薀)を分析し差別し相対比して知る心の作用で、世俗的だが非常に高度な分析的、合理的、論理的はたらきで、叡智とも云われるものです。
 これに対して智慧とは諸法、つまり存在の要素と存在の要素を超えたもの(涅槃)の道理を見抜く心の作用で、そのはたらきは直感的、直証的かつ総合的な事に特徴があり、それは換言すれば悟りの境地とされます。

 私は最近読んで感銘した「奇跡の脳」という本があります。著者ハーバード大学の脳科学者、ジル・ボルト・テーラ博士で自らが脳卒中でたおれてから完全復帰するまでの体験をつづったものです。この本で説かれている左脳のはたらきが智の心の作用に、右脳のはたらきが智慧の心の作用に似てるのにびっくりしました。智は左脳的、智慧は右脳的です。
 空の本質は左脳的な分析的、合理的、論理的な考察で得られるものでないのです。無限の宇宙全体の構造や現代の地球に住む60億余の人々の人生の有様と一人一人の心情を一瞬の内に理解するような、直感的、直証的かつ総合的な思考の力、つまり右脳的な智慧でのみ可能なのです。

 説一切有部は慧を諸法を識別する普遍的な心の作用としながらも、慧の中心的意味を担うのが智であるとし、あくまで分析的、合理的、論理的な思考を重視して、有漏智、無漏智の二智や十智などに分類して詳細に論じました。しかしそれは論理的思考の枠組みを超えるものでなく、時空、あるいは次元を超越した空の本質に達する事が出来ないものでした。

 ここで「転 一節」の文章を私の解釈でかかげます。


     無智亦無得 以無所得故
     菩提薩た 依般若波羅蜜多故心無けいげ 
     無けいげ故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 究意涅槃
       (ひらがな記載の部分は漢字入力をすると文字化けするためです)


 この冒頭の「無知」の智とは説一切有部の智を指しています。この智は智慧の事を意味し、悟りの智慧をも否定しているという解釈がありますが、それは明らかな間違いだと私は思います。お釈迦さまの悟りの本質としての智慧は、般若心経と云う経題の般若(パンニャ)、般若波羅蜜多の般若と表記されているように、智(ジナナ)とは明確に区別されているからです。

 「無智亦無得」とある無得の得とは、何を得するのでしょうか。これは古代インド人を悩ませた果てのない苦しみの輪廻からの解脱、涅槃への到達以外に有り得ないでしょう。仏道修行の目的はそこにあるからです。
 以無所得故は説一切有部の教義そのものの無力さを示すもので、その教義の全否定を意味します。

 菩提薩たとは菩薩の事で悟りを求める修行者です。けいげとはこの場合心のさまたげとかこだわりの事です。

 恐怖とは修行者が持つ根本的な恐れで、いかなる積徳や積善、神に対する祈りや修行によってもまぬがれない、苦悩に満ちた輪廻に対する恐怖です。

 一切顛倒夢想とは存在の要素は三世にわたり実在するとした説一切有部の論理体系と、その体系に基づくさまざまの教説を形容しています。

 究意涅槃とは般若波羅蜜多の瞑想行によって得られる究極の悟りを云います。



(5)転 2節 三世諸仏~

 この節の全文は次の通りです。


     三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多 羅三藐三菩提


 三世とは過去、現在、未来と、時間の三つの世界です。私達の普通の感覚では時間は過去から現在、未来へと一方向に流れるものです。未来から現在、過去へ時間が逆流するとか、過去、現在、未来が同時に存在するという観念は、とうてい受け入れ難いものです。しかし、神秘的修行者は自らの瞑想の中で体験した同時存在する3つの時間の観念により智慧の深さを表現しているのです。

 「アノクタラ・サンミャク・サンボダイ」とはサンスクリット語のアヌッタラ(この上ない)、サンヤック(正しい)、サンボーディ(完全な悟り)の音写です。漢訳では無上正等覚で、前述、究意涅槃と同じ意味です。
 この「転 2節」では1節の修行者が得た悟りは、同じ方法(般若波羅蜜多の瞑想行で)全ての仏さまも悟りを得ている事を明示して強調しているのです。

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