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般若心経の空とはなにか

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私の般若心経の解釈について その3

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私の般若心経の解釈について その3

 さて、私は般若心経を「起承転結」に分解し、かつ承転結の部分を一節と二節に分け、二節は一節を強調しているとして解釈している。

 (1)起      観自在菩薩~
 (2)承一節    舎利子~
 (3) 二節    是故空中~
 (4)転一節    無知亦無得~
 (5) 二節    三世諸仏~
 (6)結一節    故知般若波羅蜜多~
 (7) 二節    故説般若波羅蜜多呪~

 そこで、それぞれの項目に上記の通り(1)~(7)に付番して順番に説明していく事にします。

(1)について

 紀元前後、最大勢力をほこり仏教教理に最大の影響力をもつ部派仏教(小乗仏教)の一派、「説一切有部」は修行者の段位として預流、一来、不還、阿羅漢の4段階を定めた(厳密には四向四果という8段階)。
 預流とは聖者の流れに入る事。一来とは一回だけ人と天の間を従来して悟りに至る位の事。不還は欲界に再び還らず、色界に上がって悟りに至る位の事。阿羅漢は今生の終わりに悟りに至り再び三界(欲界、色界、無色界)に生れない位をいう。
 阿羅漢とは「供養に価する尊い人」の意味で部派仏教では修行者が到達しうる最高位とされた。しかしお釈迦さまは阿羅漢よりはるかに優れた方で、凡夫がいくら修行しても到達できない高みにある。この世で初めて仏道を開いて修行をはじめた者は、なれたとしても阿羅漢で、とうていお釈迦さまのようになれないとして、お釈迦さまを極度に神格化してしまったのです。
 「般若心経を完成した神秘的修行者」(以下神秘的修行者)は深い瞑想の中で、お釈迦さまと入滅後800余年にも渡り、お釈迦さまが残した教えによる般若波羅蜜多の瞑想により、お釈迦さまと同じ悟りを得た幾多の修行者の姿を見ていた。その様相は説一切有部が説く段位、四向四果とは全く異なるものであった。
 そこで般若心経の冒頭に幾多の修行者(観自在菩薩)は「般若波羅蜜多の瞑想により一切(五蘊)は空である事をありありと見て、すべての苦厄から解放されて救われた」と断言して後に続く修行者に伝える必要があったのです。

(2)について

 次にそれでは空とはどんな理法なのか、どのような性質をもつものかを説明することになります。この時代、舎利子は説一切有部の実在論の修行者に見立てられていたので、実在論者舎利子に教えを説くという形で、神秘的修行者は空についての理法と性質について述べました。
 数学ではAとBは同じであるという事を「A=B」の等式で示します。
これは小学生から数学の専門家にも通用する算式で、その解釈にはなんの疑問もなく万人に通用します。色と空の関係も「色=空」なのです。この事を言葉で厳密に表現したのが般若心経の次の表現です。

        色不異空 空不異色   色即是空 空即是色

 色は空と異ならず。空は色と異ならず。空は色の側から見て色です。色は空の側からみて空です。色と空の関係「色=空」をこれ程簡潔かつ明確に表示する方法はあるでしょうか。神秘的修行者の天才的成果です。
 五蘊とは「色受想行識」で、次の意味があります。
    色とは本来、肉体を意味し、後に肉体を含む物質全般を意味するようになりました。
    受想行識とは心の働きを4つの段階に分けたもので、要するに心です。
 そこで五蘊とは森羅万象を含む全てという意味になりました。
 ところが、空の性質の説明になると五蘊でなく「諸法空相」と諸法になっています。諸法の「法」はサンスクリット語のダルマの訳語で、「空の思想。仏教における言葉と沈黙」の著者、梶山雄一先生は次のような意味に使われていたと述べています。

      イ 法則、法、基準  ロ 道徳、宗教  ハ 属性、性格  ニ 教え
      ホ 真理、最高の実在  ヘ 経験的事物、もの  ト 存在の形、範疇
      チ 存在の要素

 説一切有部の論者は、ヘ、ト、チの意味で使うことが多いという。
 そこでこの「諸法」とは、チの存在の要素つまり説一切有部の教理の骨格をなす「五位七十五法」でいう、実在するとする75種の存在の要素を示し、それは森羅万象の構成要素です。この存在の要素は空の性質をもつものだから「不生不滅、不垢不浄、不増不減」だと云うのです。

 不生不滅とは存在する事物や現象は実在する要素から生まれ出てくるものでなく、虚無の彼方へ滅していく訳でもない。相互依存の関係で生成消滅を繰り返すだけと云う事です。つまり不生不滅と云う表現により、空とは実在説(有)とも虚無説(無)とも異なる、と云ってるのです。

 不垢不浄はお釈迦さまの悟りの本質を表すけがれないきよらかさ「浄」と、その反対語であるけがれ「垢」を否定している。その意味を説明するのに私はここで少し極端な喩えを云います。
 お釈迦さまは仏教徒にとってこの上のない清らかでけがれのない存在ですが、熱心なキリスト教徒にとってけがれた偶像崇拝の親玉です。ヒットラーはユダヤ人と心ある世界中の人々にとって残酷で醜悪さにまみれたけがれの人物ですが、一方でそのけがれた行為(ユダヤ人迫害)の故に崇拝する人々がいます。
 つまりこの世には誰からみても絶対的な垢(けがれている)とか浄(けがれがない)と云う人間や事物はないという事です。この事は垢と浄に限りません。徳と不徳、正義と不義、幸福と不幸、豊かさと貧しさ、高い能力や才能とかと無能や凡才、感謝と憎悪など人間と人間社会、天然自然の世界におけるあらゆる現象と事物をも含むものです。
 絶対的、唯一の価値観はない、と云うのがここで表現されているのです。

 次は不増不減です。私達は小さな幸せをいく層にも積み上げて大きな幸せを得るのでしょうか。私達はまた、大きな怒りを爆発させるのは小さな怒りを集めたからでしょうか。
 幸せの絶頂から奈落の底へつき落とされる、という事があります。逆に絶体絶命の危機を脱して生命や財産の喪失をまぬがれた、という話を聞く事があります。つまり幸せや危機に例えば1から10のランクがあり、1からいきなり10に変化する、10からいきなり1になるということで途中のランクは関係ありません。
 物事の変化とはどんな極端な事であれ、増減とか強弱と云う量的変化を意味するものでなく、条件(因縁)の変化、換言すると相互依存の関係にある物事のかかわりの変化による事、つまり質的変化によるものだと云う事です。
 これも空の一つの性質、側面だと云う事でしょう。

 このように神秘的修行者は空の性質を次のようにまとめたのです。
   不生不滅  実在でもなく、虚無でもない
   不垢不浄  唯一の絶対的な価値観はない
   不増不減  全ての変化は条件(因縁)の変化に起因する
以下、次回に続きます。 

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