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般若心経の空とはなにか

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私の般若心経の解釈について その1

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私の般若心経の解釈について その1

昨年の9月、「般若心経の空とはなにか」の小冊子版の抜粋をホームページに掲載してから、早いもので半年が過ぎてしまいました。

 この間、皆さんから感想、意見を頂きました。「感動した」「よく分かった」も有りましたが、一番多いのは「難しい」でした。難しいと云う人の話を聞くと、仏教関係、特に般若心経を初めて読む人で、中々、素直に入り込めないようです。私はそんな人に「2~3度、あるいは5~6度、繰り返して読めば分かりますよ」と云いましたが、よっぽど何かの事情や動機があればともかく、再読はしないでしょうし、これはやもう得ない事です。

 しかし、私は読者の皆さんに、是非ともこれだけは理解して欲しいと思う事があります。それは私の般若心経の解説書には「これ迄も、今現在も書店の書棚に陳列されている数十冊のいかなる解説書とも視点、解釈が異なる」という点です。般若心経を「起承転結」に、しかも承転結の部分を前半と後半「一節、二節」に分解して、その意味を一つの文章として分かりやすく解明したのは、私の小冊子が初めてだろう、と云う事です。
 その一方で、私はその事をあまり主張したくありません。仏教教学や仏教の歴史に全く素人の私が多くの専門家、作家の解説書を差しおいて、そのような事を主張するのはおこがましいと思うからです。

 私は般若心経に込められた真理は、それを真理として受け入れる人の数だけあると思います。そして、それでいいのだとも思います。般若心経の意味も、成り立ちも、各宗派の受け入れ方も全く知らず、又、考えずに、お釈迦さまが説かれた有難い最奥の真理だと信じて帰依して読経し、写経する多くの市井の善良なる老若男女と、深い仏教教理に対する理解を元に般若心経を説く高僧と、どんな違いがあるのだろうかと思います。お釈迦さまの前では市井の人も高僧も赤子に等しいのです。

 市井の人は真理の大海に神秘さを感じ取ってただ黙って頭をたれる人です。高僧は真理の大海の成り立ちに想像をめぐらす人です。神秘の大海を目の前にして、それぞれの素質で対面しているだけで両者に本質的な差異はないと思うのです。
 高僧や専門家が自らの学識経験を市井の人に教えを与えるという立場を取るならば、それは傲慢と云うものだと思う。私が私の解釈を他の類書にない新しい解釈だと強調する事は、そんな傲慢さとなる、そんな傲慢さと受け取られかねないと恐れるので云わないできました。

 しかし、私は私の小冊子で初めて般若心経に接して難しいと感ずる人のために、私の解釈と他の類書の解釈がどのように異なるのか、お話ししたいと思います。

 どのように異なるのか、何故その違いが生ずるのか、2~3回に分けて次回、お話しします。

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