先週の土曜日、11月1日に「朝日カルチャーセンター」の講座「縄文から稲作へ」聴講のため新宿の工学院大学に行きました。先月から始まった講座で、全部で6回、その日は3回目でした。
講師はドキュメンタリー映像で幅広く活躍している飯塚俊男監督です。飯塚さんは平成5年から9年にかけて三内丸山遺跡を中心とした青森県の縄文遺跡の縄文3部作を製作した方です。
私は当時、青森市内の私の事務所に設けた「縄文の会」(平成2年結成)の会長として、青森県の縄文遺跡を歴史文化として(青森県の観光資源で最も不足しているものです)研究し、その全容と歴史的文化的価値を世の中に知らしめて、観光産業のインフラを充実し観光客を誘致して沈滞ぎみの経済活動を活性化する事を目的としていた。
縄文の会の活動の輪を広めるため相談出来る人をさがしていたところ、知人で当時(株)電通の映像部門で仕事をしていた神領勝男さんが飯塚さんを紹介してくれたものです。
平成5年の春、縄文の会の会合に初めて出席した飯塚さんは開口一番「縄文映画を製作しましょう」と発言し、その趣旨を説明した。映像の監督だからその提案はすごくもっともな事ですが、会員全員は直ちに賛意を示したので早速私は、その実現に向け行動する事にした。まず私と飯塚さんは東京、京都、大阪の大学、研究機関の著名な考古学者を訪ねて意見を求め、協力をお願いした。国学院大学の小林達雄教授、千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館の佐原真副館長、京都の国際日本文化研究センター安田喜憲教授、大阪の国立民族学博物館佐々木高明館長と小山修三教授が主な訪問先でした。映画完成後は梅棹忠夫先生、石毛直道先生、梅原猛先生も青森にお招きしてさまざまの協力、助言を頂いた。映画製作には当時の青森銀行の鈴木昭吾専務が組織作り(縄文映画製作委員会)と必要資金調達に強力にバックアップした。青森銀行だけでなく、青森県、青森市、日本原燃、会社、団体、そして大勢の市民が資金提供した。その額は総額約120,000千円にもなった。今では考えられないその資金で縄文3部作は完成した。
今回の講座は地味なせいか、受講者が少ないので飯塚さんから参加要請の声がかかり、そうした経緯もあり私は毎回出席していたものです。
1回目、2回目は縄文映画の上映と飯塚さんのお話と質疑応答で済んだが、3回目に参加者の一人から「縄文の会の会長さんに質問したい」と私に話を向けられた。それは1回目に私の最近の活動として、般若心経の冊子を皆さんに配っていたのですが、その中に縄文時代の宗教意識としての「アニミズム」にふれており、それに関連した質問でした。
アニミズム的感性は現代の日本にも色濃く残っている。青森市には街の芸術家として市民に広く愛された鈴木正治さんという方がおられた。残念な事に今年、大勢の方々に惜しまれつつ永眠された。正治さんは知人、友人だけでなく訪ねて依頼してくる全ての人に、ほとんど無償で木や石を彫ったり、さまざまの絵を描かれていた。
正治さんが元気に石を彫っていた時、「バインダーで表面を綺麗に研磨した方がいいのに」と私が思った事があり、その旨の感想を述べた所「武田さん、石にも魂が宿ってるもんだよ。だから金属の歯で表面を削るなんて痛々しくてとても出来ないよ」と云われた。
このような類の話はこの国には沢山あります。木彫で仏像を彫る仏師にある人がその精巧な作りに賛辞の言葉を述べた所「私は木を精巧に彫ったのではありません。木の中に宿る仏様をとり出しているのです」と云われたという。
最近ある本を読んでいたら、あるアメリカのジャーナリストが日本の少年野球を取材した時、ゲームが終わってからコーチと選手達がグラウンドに向かっておじぎをするのを見て、不思議に思って監督に尋ねたところ「グラウンドにも魂がある。それに感謝しているのだ」と答えられて日本文化のアニミズム的要素を強く感じたという。
こうした話に日本人のほとんどは違和感を持たないでしょう。私はこのアニミズム的感性はお釈迦さまも持たれていたものであり、原始的で幼稚な宗教意識だというのは間違いだと思うのです。むしろ現代世界の環境破壊や争いの解消に道を拓くものだと思うので、質問にはそうした意見で答えました。その答えの要旨は「般若心経の空とはなにか-お釈迦さまの悟りと龍樹による再生、般若心経を完成した聖者の真意-」の冊子にあるので抜粋してここに記載します。
二章 般若心経が成立するまでの歴史的経緯
(11)入滅、2節より。
山川草木悉有仏性
私はお釈迦さまの修行中の出来事で一つふれておきたいことがある。それは成道された時のことである。お釈迦さまは菩提樹の下で成道された時、周囲の全てが光り輝いていたという。生い茂る樹木や咲き乱れる草花も、その先を流れる川面も、遠くにかすむ山並みも、さわやかに漂う風も、その中を飛びかう鳥や走りまわる獣も、全て輝いていたという。
縁起の法によれば、人や人間社会だけでなく、霊的世界も宇宙天体も含む天然自然も全て相互依存の関係で存在するものだから、存在の原理は人と全く同じである。だから人に仏性があるとしたら、草木も花も、流れる川や山並み、漂う風、鳥や獣も、道ばたに散らばる小石さえもに仏性があるのだ。
悉有仏性、ことごとく仏となる可能性があるとか、悉皆成仏、ことごとく仏になる、とはそのような意味ではないだろうか? 私はここでも又、日本の持つ「八百万の神」とか草木、山、川や多くの場所や物に神が宿ると考える自然観、そんな自然観を教義にもつ神道との共通性に不思議さを感ずるのである。
こうした自然観を宗教学の上ではアニミズム(精霊崇拝)とされ、原始的で幼稚な宗教観とされるがそうだろうか? 過去の長い歴史を振り返ってみるまでもなく現代の一神教の世界での様相を見ていると、むしろ、逆の評価を与えるべきではないだろうか? このことは、次に述べる縄文文化を考えると一層明らかになる。
以下 3節 縄文文化の自然観、に続くのですが長くなるので、次回掲載します。