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般若心経の空とはなにか

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(7) お釈迦さまの悟り「縁起の法」とは何か その②

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(7) お釈迦さまの悟り「縁起の法」とは何か その②

五蘊への執着を断った如来は、それ自体として有るのでもなく、無いのでもな
い。その死後、どこへ行くのでもなく、行かないのでもない。一切は原因によっ
て生じ、他に依存して存在する。

 この縁起的な存在性は、自立的な実体性と全く異なっている。縁起したものは
それ自体の実体性をもたないから、存在するとも存在しないとも云えない。だか
ら自立的な実体を仮定して、その有限と無限、生と滅、去と来を論ずる形而上学
はお釈迦さまにとって無用の議論であったから沈黙を守ったのです。

梶山雄一氏の著書から以上引用してきました。
 縁起とは以上の様に、実在(有)でもなく虚無(無)でもない、第三の存在の
認識論です。

 ただここで「無」について、あらかじめ述べておきたい事があります。無の宗
教とも云われる禅宗の「無」の教えとの関係です。

 禅宗は「無」の宗教と云われるが、宗旨の究極の目的、あるいは到達点として
「無」を教えているのでしょうか?

   私はそうではないと思います。禅宗が依経とする中心的経典は般若心経です。後
に解説しますが、般若心経の中心課題「空」は実質的に「縁起の法」そのものな
のです。これは私がその様に考えるとか信ずるとかではありません。

 お釈迦さまが入滅されて600年後に現らわれた龍樹は「空」の意義を論理的
に解明した。その最初の著書「中論」で、お釈迦さまの教えである縁起の法は、
中の見地から空であると説かれた。その「中論」冒頭の帰敬偈で空のオリジナル
はお釈迦さまにあると宣明している。

 「滅びもせず、生じもせず、断絶もせず、恒常でもなく、単一でもなく、複数
でもなく、来りもせず、去りもしない依存性(縁起)は、ことばの虚構を超越し、
至福なるものであるとブッダは説いた。その説法者の中の最上なる人を私は礼拝
する。」

 これは「不生不滅、不常不断、不一不異、不来不去」の八不、8つの否定によ
って限定された依存性はお釈迦さまが説かれたのであり、大乗仏教の八宗の祖と
云われる龍樹はそれを受け継いだにすぎないと述べておられるのだ。

 だから禅宗の宗旨は「空」にあるのであって「無」ではありません。禅宗は座
禅と云う修行の中で体験する事、見えてきたものを、自分の修行の成果などと考
えてはいけない。一切を無、無、無、無と否定しなさいと云う「修行上の方便」
と考えるべきだと思います。修行(座禅)の中での数えきれない否定、つまり「無」
の彼方に「空」は存在する、と云う事なのでしょう。

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