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般若心経の空とはなにか

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「疑似科学やオカルト・・・」の新聞記事~霊について~

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「疑似科学やオカルト・・・」の新聞記事~霊について~

 前回、12月12日掲載の「スプーン曲げ」に続いて、今回は「霊について」掲載します。
 彼は「悪霊のたたり」との関連で「もし、霊が目に見えるものであれば、霊そのものが光を発しているか、反射しているはず。たたるには記憶や認識といった高度の仕組みを持った有機体でなければならない。霊を信じるかどうかは個人の自由だが、科学的な意味で存在し得ない、と断言する」。「楽して得を取りたい、という欲得と思い込み、それに非合理的思考が結合する時、人はとめどなく危ういだましの深みにはまっていくと警告する」。

 実は、私は前回、この記事のスプーン曲げについて色々考えて反論を書きながら、反省していました。ブログに載せるんじゃなかったと・・・。しかし12月5日に「この新聞記事について私の意見を述べてみたいと思います」と毎週アクセスして頂く人に約束してしまったので途中で放棄するのも無責任なので、続けている次第です。彼のあまりに独善的な云い方に反発を感じて、ついつい書いただけです。

 霊について考えると書く事がありすぎてきりがなくなります。数かぎりなく書いたとしても人それぞれで、納得してもらえるのが難しい気がします。
 お釈迦さまは霊について説かれる事は非常に少なかったようです。霊について知ったとしても修行に役立たないだけでなく、有害だと考えておられたようです。次のようなお話を読んだ事があります。お釈迦さまが弟子達に説話をしている時「いまお前たちの前を人間の形をした肉魂が飛んでいった。彼は○○で、前生の○○の行いの因果により、あのような姿でさまよっているのだ」。」これはお釈迦さまが弟子達の面前で発現した姿、現象としての事実をありのままお話されただけのことで、私は付け加えるべき意見はありません。

 霊は科学の方程式のように一定の条件により特定の結果を導き出すものでないようです。霊は一人一人の生き方の結果の現象で、百人には百人分、百万人には百万人分の世界があるようで、ある形により類型化できないようです。
 霊は古代のバラモンが考えるように未来永劫変わらない実体として存在するものでないし、夢の中の幻のような虚無の存在でもないようです。縁起、つまり空のはたらきで、特定の人との特定の条件により姿を見せ、また現象を発現させるもののようです。
 人は厳密に云えば瞬間瞬間変化しております。昨日の私と今日の私、昨年の私と今年の私、現在の私と20年後の私は、異なります。健康の良否、事件、仕事、結婚、子供、などさまざまの要因で時々刻々と変化するからです。縁起の法により、存在は全て相互依存関係の中で成立するのだから霊の世界も、特定の一つの霊的現象が繰り返し繰り返し発現するのはない事になります。だから、科学的手法とは異なる次元の世界なのです。

 すぐれた科学者は科学の力によって物質や電磁波や天体などの世界のナゾが解明されればされる程、その中でなお残るナゾの世界に神秘さを感じて、神の世界に入っていくと云われます。アメリカの宇宙飛行士で月に着陸した人は、ほとんど神の存在を感じたそうです。その為、後に宣教師になった人も何人かいたようです。「月にうさぎなんかいなかったよ」と昔の人の想像力をおとしめるような人はいなかったという事です。私が「霊は科学的な意味で存在しない」という「科学者」に持つイメージは、人間が月に着陸した科学的成果をもって、うさぎがいたなどという、昔の人の想像力の幼稚さを笑うような軽薄さです。そんな新聞記事など読みとばして忘れてしまえばそれで済んだのですが、この項の冒頭に「  」で紹介した彼の発言の幼稚さと横柄さに反応してしまったようです。

 ついでですが私の霊的体験と聞いた話を2,3書きます。私は霊感というものがないので「霊体」を見た事はありませんが、次のような経験があります。
 私の妻はH15年11月に亡くなりました。お墓が決まる迄1年間、お骨は居間に安置しておりました。1年後の命日が納骨日で、その前日の夜の事です。1人でテレビを見ていると、お風呂場から湯浴みの音が間をおいて聞こえて来ました。ジャージャーという何回かの湯浴みの音で私は「アッ」と思いました。妻が明日の納骨に備えて身じたくのため、入浴しているのだと直感しました。直にお風呂の電気をつけ、湯の温度調整のスイッチを入れました。
 しばらくして帰ってきた娘にその事を云うと「パパ、知らなかったの。お風呂はママのお気に入りの場所だから時々入ってたよ」と返事された。
 お風呂は4階の居間のとなりで、ベランダに面してます。妻が当初の設計を変更させてその場所に移し、お風呂の外のベランダには生垣風の細工をし色んな鉢植えをならべていました。そんなお風呂に本を持ち込んで、1時間も2時間も楽しんでいたようでした。

 霊体についてこれまで恐らく数十人の人からさまざまの事例を聞いた事があります。
 酒場でのホステスの話です。ある日、なにげなく入口の方を見ると一人の中年の男性が入ってきた。ところが、店のスタッフが誰も気付かず、「イラッシャイマセ」という声もかけない。不思議に思って見ていると、自分の目の前(1mもない身近か)を通り過ぎて、そのまま奥の壁の中に消えていった。
 私の兄嫁の話です。高令で長く床に臥していた祖父が亡くなった通夜の夜の事です。懇意にしている近所の人が「2日程前、あんなに元気そうだったのに突然亡くなってびっくりしました」という。事情を聞くと「2日前、近所の生垣のある通りを歩いてお寺に入っていくのを見ました。それで健康を回復して散歩していた、と思った」という。しかし本人は立ち上がる事など出来ない病状だったのです。
 以上のような話は山ほどあります。話す人は損得とか、思い込みがあって主張していた訳ではありません。自身の見たものを、見たと云っただけです。

 悪霊のたたりを持ち出して、それをネタに商売にする人がおります。しかしそんな事があるから霊を否定するのは本末転倒です。どんな有益なものでも、それと裏はらに有害な面があります。
 自動車は社会に必要不可欠な道具ですが、環境を汚染し、交通事故で人を不幸のどん底に落とします。原子力は平和利用できるが、恐ろしい兵器になります。肉は美味しく栄養豊富ですが、メタボなど病気の原因にもなります。麻薬は人間を破滅させる毒物ですが医療にはなくてはならない薬でもあります。
 その物事の本質と、否定的側面や有害性、犯罪性とは区別して論じないと物事に対する評価ができなくなるのではないでしょうか。

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